4月6日

2001-04-06 vendredi

昨日のオリエンテーションで不思議なことがあった。
10人くらいの新入生の小グループに別れていろいろおしゃべりをするのであるが、私の担当グループの中に在日韓国人の人がいた。
その女子学生が自己紹介のときに、自分の韓国名(戸籍上の姓)にはまるでなじみがないので、どうか通称名(日本の姓)で呼んで欲しいと言った。
つい、先日、朝日新聞で在日の人たちの「名前」についてのこだわりが連載記事になっていた。(今日も同じ趣旨のコラムがあった。)
そこで好意的にとりあげられていたのは、すべて「戸籍上の姓」で暮らすことを選んだ人たちの事例であった。
「日本人のような名前」で生まれ育ち、そのまま「日本人のように」日本で生きて行く道を選んだ人たちもたくさんいる。その人たちのことを特に批判しているわけではないが、「戸籍上の名を名乗ることは」「誇り高いことだ」と言う記事の流れを汲めば、「日本人のような名前」で生きて行く在日の人は「誇りのない人だ」というふうに解釈されてもしかたがない。
現に、私が会った学生は、高校の担任の教師に「在日としての誇りをもって生きろ」と言われて、卒業式の日にみんなの前で「私は実は在日韓国人です」とカムアウトすることを促されたそうである。彼女のくちぶりからはそれが不本意な選択であったことが窺い知れた。
私は彼女につきそって大学事務に行き、交渉のお手伝いをして、通称名で公式書類をすべて作り替える、という約束をとりつけた。(事務当局者の対応はとてもすみやかで、フレンドリーだった。)
そこで私は少し彼女と話をした。
「民族の誇りをもって生きる」というような言い方というのは誰が使うにしろ、ちょっとやだね、ということで私たちは意見の一致を見た。
以前、ここに書いて、ずいぶん反論を頂いた同じ主張を繰り返すが、私は「自分は・・・民族である」とか「自分は・・・人種である」とか言うことを、声高に言い立てる人が好きではない。
どのような場面で、どのような判断をするときでも、つねに「民族として」とか「人種として」とかいう判断基準が優先的に意識化される人のことを、私は「ナショナリティ・コンシャスネス」や「レイス・コンシャスネス」が高い人、というふうに呼んでいる。
「・・・民族である以上、・・・でなければならない」というふうな発想法をとるひとは、「ナショナリティ・コンシャスネス」の高い人である。
それが日常のなんと言うことのないようなオプションの選択に際していちいち意識化される思考の不自由さを私はよいことだと思わない。
多文化共生というのは、そのようにぎすぎすしたものでなければならないのだろうか。
『朝日新聞』の記者はこう書いている

「日本社会はなぜ『ちょっとだけ異なる存在』を自然に受け止められないのか。(…) この国に住むのは『日本人らしい名前』を持つ『日本人』だけ-私たちはそんな固定観念を振り払い、もっと社会の構成員の多様性に気づき、慣れる必要がある。」

構成員が多様であることに対して寛容な社会を求めることに私はまったく異議がない。
「私一人『変』で、あとは全員『ふつう』」という状況では、人々がどれほど不寛容になるか、私は経験的に熟知している。
そのような経験をしてきた人間として、私は構成員に「変わり者」がいてもとやかくいわず「均質化」することに過剰な価値賦与をしない社会に、ぜひ日本はなってほしいと願っている。
その上で、この記者の議論には違和感を感じるのである。
私は、この記事そのもののうちに「多様性を抑圧し、均質化を求める」きわめて「日本的」な隠微な圧力を感じるのである。子どもの頃から繰り返し強要され、私がそれに反抗しつづけてきた口ぶりを聞き取るのである。
この記者は「在日韓国・朝鮮人」は「本名」を名乗るべきだ、と主張している。
言いかえれば、「日本人らしい名前」で生きるのは日本社会の排他的な固定観念に屈服することで、人として恥ずかしいことだ、と言っているのである。(うちの学生がカムアウトを求める高校の教師に感じたのは、この無言の抑圧である。)
このような主張は、「在日韓国・朝鮮人は日本社会において、『日本社会の均質化圧力』に異議申し立てをし、『多様性の混在』を求めるべきである。それこそただしい在日韓国・朝鮮人のあり方である」というポリティカリーにコレクトな「当為」を前提としている。
その前提がそこから導かれる結論を否定していることにどうしてこの記者や高校教師は気がつかないのだろう。
この文言の中の「在日韓国・朝鮮人」を「日本人」に変え、「日本社会」を「国際社会」に変えれば、これは石原慎太郎や藤岡信勝や小沢一郎の主張と同一である。
私は石原たちの主張が嫌いである。
それは彼らが私を勝手に「日本人」という集団に括り込んで、「日本人なんだから・・・するのが当然だ」という義務を私の同意抜きにかってに押しつけてくるからである。
私は私である。
日本人として何をなすべきかは私が自分で判断して自分で決める。よけいなお節介はしないで欲しい。
だから、在日韓国・朝鮮人は多様性を主張すべきである、と説くこの記者が(おそらくは主観的にはリベラルな人が、それと気づかずに)、石原や藤岡と同じ抑圧的なロジックを操っていることに私は直観的に不快感を覚えるのである。
在日韓国・朝鮮人の中にも、在日アメリカ人の中にも、在日ユダヤ人の中にも、在日アイスランド人の中にも、私と同じように、「在日**人なんだから、おまえは・・・すべきだ」という語法を嫌っている人もいると思う。(おそらく私と同じように少数派であろうが)
民族や人種で集団を一括りにして、その集団を「当為」で律するという発想そのものを根絶しない限り、ほんとうの意味で多様性に対して寛大な社会などというものは実現できない。私はそう確信している。しかし、それに同意する人は驚くほど少ない。
朝日の記者はさらに続けて、文化的多様性の実例として、こんな話を紹介している。

「大阪で郵便配達の仕事をしている青年はこんな話をしていた。配達先が不在のとき、郵便受けに入れる通知に、必ずハングルで自分の本名を書き、読み仮名を振る。
『それを見た人が、自然な形で在日の存在を理解してくれたらいい』と言う。
名前はかくも雄弁だ。だから、大事にしたい。」

私はこの記者の意見にまったく同意できない。
もし自分の家の郵便受けに読めない文字の通知が入っていたら、私は困るし、不愉快になる。それがハングルであろうと、ロシア語であろうと、ギリシャ語であろうと、同じである。
この記者は、もし「在日イスラエル人」の郵便配達人が「自然なかたちで在日イスラエル人の存在を理解してほしい」と言う気持から、彼の扱う公文書にヘブライ語で署名することにも同意するのだろうか?
私は同意しない。
そういうことは私的領域でやってほしいと思う。公私の別ができない人間は困ると思う。
ナショナリティというのは歴史的に形成された幻想的な「帰属意識」にすぎないと私は思っている。それがどれほど強固なものであるかは骨身にしみているが、それでも「幻想は幻想だ」と私は言い切りたい。
その帰属先として、どこが優先的に意識されるかというのは個々の事情で決まる。その意味では、「在日韓国人」と「在神戸福岡県人」のあいだに帰属意識のあり方において、原理的な違いはないと私は思っている。(これは笑い事ではない。現にいまから120年ほど前、西南戦争のときには、「薩摩人」に対する「会津人」の憎悪というものが政治的に有意なファクターであった時代がある。「薩摩人は殺してもいい」と確信している人々が集団として存在したのである。)
そのような濃密なアイデンティティを持っている「福岡県人の郵便配達人」が「神戸市にも福岡県人が自然なかたちで存在することを理解してほしい」という気持から不在通知に「不在やったけん、また来るばい」といちいち書いてくれたとしても、私はこの愛郷意識にまったく感心しない。
「よほど福岡が好きなんだね。それは分かるよ。めんたいこも美味しいし、長浜ラーメンも美味しいからね。ま、でも、そういうのは君の個人的なことなんだから、公的な場面には持ち込むなよ」と思うだけである。
繰り返し言うが、集団は均質的であるべきであり、その構成員はその集団に固有の作法で判断し、行動すべきだ、という議論の立て方が私は生まれてからずっと嫌いである。
朝日の記者が(そして、うちの学生にカミングアウトを促した高校の教師)はどうして「日本社会」が均質的であることを否定しながら、「在日社会」が均質的であることを当為とするおのれの論理矛盾に気づかないでいられるのであろう。
私に思いつく説明は一つしかない。
それは、彼らが骨の髄まで「均質化」されているせいで、「多様性」とはどういうものか、想像できない、ということである。もっと率直な言い方をしてもいいが、角が立つからやめておく。(私とて、これ以上日本社会で「孤立」するのは避けたいから)