4月5日

2001-04-05 jeudi

昨日は膝の痛みがひどくて、ついに杖のお稽古をお休みする。
お休みついでに三宮で『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を見る。(レビューは「おとぼけ映画批評」を)

「ふーむ」とうなずきつつ「がんこのトンカツ」を買って帰宅。
るんちゃんがいなくなったので、外食と「ほか弁当系」の食べ放題である。
娘がいる間は、主夫としての責任感から、毎晩それなりに美味しいものを作っていたが、この一週間はさすがに一度も料理らしいものをしていない。(みそ汁を作ったのと、冷凍の餃子を焼いただけ)
朝はトーストと目玉焼きと果物。昼は「緑のたぬき」。夜はマクドのてりやきバーガーというようなジャンクな食生活を長く続けていてよいものであろうか。
でも、一人でご飯食べるときは、どうしても「ちゃっちゃっ」と作って、ぱっと片づけることが優先してしまう。(ほか弁やバーガーものはそのままゴミ箱に放り投げておしまいである。らくちんだ)
ひとりでご飯を食べるときにいつも思い浮かべる曲がある。
クレージーキャッツの『これが男の生きる道』である。
こんな歌詞。

♪帰りに買った福神漬けで、一人寂しく冷や飯喰えば、古い虫歯がまたうずく。愚痴は言うまいこぼすまい。これが男の生きる道。(作詞・青島幸男)

それほど流行したという記憶がない。それどころか私自身一二回しか聴いたことがないと思う。(こんな歌をTVでやっても盛り上がらない。)
にもかかわらず、私は一番の歌詞をまだ覚えていた。
おそらく中学生の私はこの歌を聴いたときに「これは私の老後のすがたを活写したものにちがいない」という直観に貫かれたのである。
同じ直観を共有した人に橋本治がいる。
去年の暮れに「ちくま文庫」で出た橋本のエッセーの題名は『これも男の生きる道』。
男の自立について書かれたこの本のすべての文に私は共感する。
もっとも共感した箇所を抜き書きしておこう。

30年ほどまえある女性記者が家事をなにもしない新聞記者の夫と離婚した。
「そこで彼女は『女の仕事を認めると言っておきながら、一方的な家事負担を押し付けてなんいもしないままの男』を非難している。
読んでもちろん、この私は怒った。『悪いけどオレは、自分で自分の洗濯くらいしてるぞ。自分の部屋の掃除だってしてるぞ」と。なんでそんな怒り方をしたおかというと、『何にもしない夫』を非難する彼女の文章は、『元夫に代表される世間一般の男のあり方』を非難する文章だったからですね。学生だった私は、自分のことを『世間一般の男の一人』だと思っていましたから、その文章の中にある『一般化のしかた』に腹を立てたんです。『おまえの前の亭主が能なしだったことと、このオレとは関係ねーだろうが」と。
(…) 昔から不思議な腹の立て方をする私は、『そんなバカな亭主の正体を見抜けないで結婚なんかしたおまえがバカなんだよ」と、とんでもない怒り方をしている。
私は昔から『女にゴチャゴチャとケチをつけられるのはいやだ』という誇り高い男ですから『やだなー、この女』と思ったら、『どうしていやなのか』をきちんとさせようとする。
(…) 私の言い分は間違ってなんかいないんだけれども、ちっとも他人の支持を受けない。だからしようがない。『ともかく、この女性評論家はバカなのである』と決めてしまった三十年前の私は、黙って一人で『しょうがねー。めんどくさがらずに、やっぱり自分の洗濯は自分でしよう』と決心をして、その決断に従う。そこで洗濯を止めてしまったら、その女性評論家のバカな元亭主と同じレベルになってしまう。『そんなバカな男と結婚するおまえがバカだ』という『真実』は通らなくなってしまう。『道はたった一つ、"まともになってやろう" という決心をするだけだ』というのは、こんなことなんです。」

私はこの文章のすべての言葉に共感する。
私もまた、35年間、自分のパンツを自分で洗い、自分の部屋を掃除し、自分の洋服のアイロンをかけ、自分のご飯は自分でつくり、自分の着物の半襟を自分で縫いつけるような生活をしている。
「家事をしない男はバカよ」と「バカな女」たちにひとくくりにされるのがたまらないからやっているのである。
世の中には、そういう一般化に耐えられない人間がいる。それが「まともなひと」であると私は思う。
「まともになる」ということの基本にあるのは、「バカにゴチャゴチャとケチをつけられる」ような生き方はぜったいにしたくない、という嫌悪だという橋本治の知見に私は100%賛成である。
というわけで、帰りにファミリーマートで買った「キューリのQちゃん」で冷や飯を食べると、膝の古傷が痛み出すとき、私は小さな声で「これが男の生きる道」を口ずさむのである。
私がこれこそ誇り高い男の歌だと思う。
キューリのQちゃん、好きだし。