いよいよ明日から新学期だ。
春休みの間にレヴィナス論を仕上げるという大それた望みを1月頃までは抱いていたのであるが、それもむなしく潰えてしまった。
それでもなんとか「レヴィナスとフェミニズム」のとっかかりまでたどりついた。
レヴィナスのエロス論は徹底的に男性的な視点から書かれており、これをデリダは「形而上学の歴史で前代未聞」の出来事であると評した。
イリガライは「レヴィナスに限らず男の哲学者はみんな無自覚なセクシストだ」という絨毯爆撃的な批判をしたが、デリダのいう「レヴィナスのように書いた人はこれまでにいない」という指摘と、イリガライの言う「男はみんなそういう風に書く」という指摘のあいだには、埋めがたい溝がある。
私はもちろんデリダを信じる。
ではなぜレヴィナスは「哲学的主体とはすなわち男のことである」というようなことを書いたのであろう。
私にはわからない。
わからないからレヴィナス論を書く。
知っていることを書くのではなく、知りたいから書く。
だから私がディスプレイに向かっているとき、私は自分の指がもののけにつかれたようにキーボードを叩いて打ちだす文字を見て「あわわ、そうだったのか」と驚くことになる。
いったいこの場合、思考しているのは「誰」なんだろう。
たぶんホメロスが「ダイモン」と呼んだもの、ラカンが「大文字の他者」と呼んだもの、三浦友和が「スーパー部長」と呼んでいるものなどのお仲間なのだろう。
(2001-04-03 00:00)