3月30日

2001-03-30 vendredi

『ためらいの倫理学』の出版記念パーティが祇園の某料亭において盛大に開催された。
ご出席頂いたのは、冬弓舎の内浦亨さん、法政大学の鈴木晶先生、そして「鳴門のロック少年」増田聡さんである。これに装幀の山本浩二画伯が加わると、今回の出版スタッフは全員揃うのであるが、残念ながら画伯はミラノに外遊中。
私は三人を存じ上げているが、お三方は「メル友」仲間で、今日が初対面。
京都河原町の菊水前に集合し、祇園と木屋町でいきなりハイテンションな議論になって、がんがん呑み、がんがんしゃべる。あっと言う間に4時間が経ち、話は盛り上がっているのだが、終電に間に合わないので、名残を惜しみつつお別れ。
増田さんはそのまま御影のわが家へ。さらにアイリッシュ・ウィスキーなどを呑みながら、深更に至るまでしゃべり続ける。
ああ、愉快だった。
内浦さんは物静かな青年であるが、あとの三人はとにかく「しゃべる」人たちである。それが一堂に会しているのであるから、そのスピードは半端ではない。(これだけハイスピードでしゃべったのは、私も久しぶりである。私が「エイトマン加速」をしないと間に合わないのは、ふだんは小林昌廣先生としゃべるときだけである。)
これに山本画伯が加わっていたら、どうなったであろうと想像するだけでどきどきする。
話題は元ガレージ・パンク・ヴォーカリスト、元ロック・ベーシスト、元チャンチキ・ドラマーが出会ったので、まず音楽談義で盛り上がる。そのあと教育問題、大学問題と「どどど」と展開したのであるが、とても再現するエネルギーがない。
テープで録音しておいて、そのまま本にすればよかった、とあとで内浦さんが言っていた。それくらいにスピーディで濃密なおしゃべりだった。
ああ、楽しかった。

この四人はインターネットを通じて知り合った。一年前にはお互いにぜんぜん知らない間柄だったのに(鈴木晶さんの本は何冊か持っていたけれど)それがまるで十年来の知己が集まったような、楽しい宴だった。
インターネットによって人的ネットワークの形成プロセスは大きく変化するだろうという予感がする。
ふつう、私たちは初対面の人とは「名刺の交換」というようなところから始まって、それぞれの勤務先とか専門とか関心事とかについて「小当たり」にデータを取りながら話を進める。
けれども、今回の集まりではホームページで自分のことをみんな書きまくっているので、そういうパーソナル・データは周知のことであり、それどころか「今週のホームページで熱を入れて論じていたこと」も熟知している。そして、そもそもそこで論じられている問題についての接近の仕方に「共感」したがゆえに、いまこうして集まっているわけだから、話がいきなり核心的なものになるのは当然である。
それぞれの「持説」はホームページ上で繰り返し開陳しており、お互いにそれを読んで来ているわけだから、このオフ会の現場では「持説」をもう一度繰り返すことは礼儀上しにくい。
つまり、「まだ一度も公開したことのない本邦初公開的知見」を全員が今、この場で語ることを構造的には強いられているわけである。
これがハイテンションの理由のひとつであると私は思う。
私たちがおしゃべりをしているとき、相手に「得意の持ちネタ」を聞かされると、「退屈だな」と思うことがある。いままでに何度となく色々な人に話し聞かせてきたせいで、すっかり手垢のついた(あるいは話芸として「完成に近づいた」といってもよい)「ストック・ストーリー」を聞かされているとき、私たちは「あ、これは出来合いの話だな」ということがなんとなく分かる。
それが礼儀に反するような気がするのは、そこには「いま、私を相手にしている」という「出会いの一回性」に対する配慮が欠けているからである。
聞き手である私が、代替不能の対話相手として認知されていないこと(匿名の「オーディエンス」でしかないこと)にかすかな苛立ちを覚えるからである。
この場でのこの出会いのなかではじめて口にされた言葉、私が対話の相手であったからこそ選ばれた言葉、その言葉の生成に聞き手もまた関与しているような言葉。それを語り、それを聴き取るために、私たちは対話の現場にいる。
昨夜の会話の相手たちは、全員が「手持ちのストック・ストーリー」をあらかた相手に知られているもの同士である。
だから、ある意味ではかなり「きつい」会話である。
全員が舞台に上がるや、いきなり「新作」の即興演奏を求められているようなものである。おそらく、その心地よいストレスが、昨夜の絶妙なインタープレイを生み出したのだろう。
こういうような濃密な人的ネットワークはこれまでの社会では、若いときにしか作ることが難しかったし、関係の熟成には長い年月を要したものである。
それがいまやネット上で超高速で形成される。

「お手軽な人間関係なんだから、そんなのヴァーチャルな幻想なんじゃないの」

というような半畳を入れる人もいるだろう。
私も以前はそう思っていた。
けれども、これほどまでに「話が合う」と、ちょっとそのような賢しらなもの言いには同意することはできない。
インターネットの出現によって、人間関係の形成に「新しいやり方」が加わったのである。
それは純粋に「よいこと」だ、と私は思う。

ためらいの倫理学