3月29日

2001-03-29 jeudi

「幼児虐待」についてのレポートがどかどかと3編届いた。
よほどみんなにとってリアルな問題なんだろうね。
それについてのウチダの意見は次の通りです。

「親が子どもを虐待するなんていうことは、ありえない」というふうに私たちはひさしく思いこんできました。
その「ありえないこと」が現に起こっている以上、それは「ありえること」なのだ、というところに議論の出発点を戻さないといけません。
「子どもがかわいくない親がいても、しかたがない。それを認めた上で、打つ手を考えよう」
たしかに、その通りでしょう。
何が悪いのか。

幼児虐待する親を「つくりだす」社会的原因はなにか?

それを解明することはたしかに有意義なことでしょう。
しかし、この問題について、「原因は何か?」という議論に進むときに、ちょっとだけ私はひっかかりを感じることがあります。
わずかな違和感を覚えます。
わが子を虐待する親たちには「親から愛された経験」や「濃密なコミュニケーションの経験」や「育児についての適切な知識」が欠けているというのはたしかにほんとうのことでしょう。
でも、彼らにいちばん欠けているのは、「責任」の感覚ではないか、というふうに思うのです。

評論家たちの中には「自分自身が愛情をもって育てられなかった子ども」は、成長したあと、自分の子どもを愛せないようになる、という説明をする人がいます。
この場合、「責任」は、わが子を虐待した親ではなく、「わが子を虐待するような親」を育ててしまった親に先送りされます。(そして、その「親の親」に)

あるいは、「専業主婦」という生き方そのものが暴力と憎悪の温床なのだ、という説明をする人もいます。
この場合、「責任」は、多くの女性に専業主婦という「間違った」生き方を強いる社会構造そのものに帰せられます。

あるいは「父親の不在」がいけないのだ、という説明をする人もいます。
この場合、「責任」は労働者を酷使する資本主義企業や、通勤に数時間もかかる劣悪な住環境を放置した政府の無策に帰せられます。

あるいは生活力のない親をケアーする公立施設の不在が原因だという人もいます。
その場合も、「未婚の母」や「定職のない親」をサポートする施設を充実させない行政の怠慢が責任を引き受けることになります。

どういう説明をしていただいても結構ですし、それらは一つ一つ確かにそれなりに説明にはなっていると思うのですが、私はどうしてもそういう説明の仕方に「違和感」を感じてしまうのです。

「親としての責任」の欠如が問題になっているときに、「親としての責任の欠如」の「責任」を「何か、ほかのもの」に転嫁するという発想をしてよいのでしょうか?
「責任感の欠如」が問題になっているときに、その解決策が「責任感の欠如の責任」は「当事者以外のところにある」という説明から出発してよいのでしょうか?
それだと、事態をますます悪化させることにはならないのでしょうか?
「君が責任感を欠いていることは、きみの責任じゃないんだよ」と言ってあげることは、その人自身にとって、その人を含む集団にとって、そんなに「よいこと」なのでしょうか?
それがベストの「効果」をもたらす解決策なのでしょうか?

私にはそのようには思われません。
やはり、「君は責任感を欠いているが、『責任感を欠いていること』の責任は本人が引き受けるほかないのだ」ときちんと伝えるべきではないでしょうか。

私は「子育ては親の責任」というふうに単純に考えてきました。
育児書や「愛の本能」に育児の責任をとらせるわけにはゆかないのと同じように、社会制度や文教政策に、育児の責任をとっていただくわけにもいきません。
子育ては「私の責任」です。
うちは子どもが6歳のときから父子家庭でしたが、私にはロールモデルになるような「父子家庭」を知りませんでした。
「ただしい父子家庭のあり方」なんか誰も教えてくれませんし、どんな育児書にも書いてありません。
しかたがないので、とりあえず私の判断で、「だいじなことはすべて親子二人で話し合って決める」という原則を採用することにしました。
なにしろ、二人しかメンバーがいない集団ですから、それを効率的に運営するためには、相棒である子どもさんの全面的な協力が不可欠です。
そして、子どもから全面的な協力をとりつける条件は一つしかありません。
それは彼女の意見を最大限尊重する、ということです。
どんなことでも娘と相談して決める。
それが娘に協力してもらって父子家庭を効率的に運営するたった一つの方法である、と私は考えたのです。
それは幼い娘を原則として「大人扱い」することであり、ときには、どう考えても6歳や7歳の子どもに判断できるはずもないような複雑な問題についてさえ意見を求めることでした。
ある教育学者の方に、後になって、私の教育方針は育児上のタブーに触れていると指摘されたことがあります。
小さな子どもに重大な選択を強いてはいけない、と言われたのです。それが子どものトラウマになることがある、と。
なるほど。
でももう遅すぎますけど。
でも、その教育学者が私を「責めた」のは正しいのです。
だって、「父子で話し合ってなんでも決定する」という方針を決定したのは私だからです。
そうである以上、「父子の話し合いでものごとを決定する」システムから生じたトラブルはすべて私の責任だ、ということになります。
「私たちの責任」ではないのです。
私は親子というのは、そういうものだと思っています。
どれほど民主的なシステムであろうと、「民主的なシステムでなきゃ、ダメ。反対はゆるさんけんね」と決定した親のやり方はまるで民主的ではありません。だから、そのシステムから派生したすべてのトラブルの責任はあげて親が引き受けるほかない、と私は思います。

「子育てについてはすべてが私の責任である」と言明する人、それが「親」である、と私は思います。
「子育ては(部分的にしか)私の責任ではない」と思っている人は、たとえ生物学的に「親」であっても「親」ではありません。
ましてや、自己防衛能力のないもの、暴力をふるう当の人間に保護される以外に生きることのできない弱いものを加虐するものはどのような意味でも「親」の資格がない、と私は思います。
親のがわに、子どもに対する暴力に至るどのような「せつない」事情があるにせよ、子どもにふるう暴力を「本人の責任以外の理由」によって「説明」することに私は反対です。
というのは、「親である」というのは、何よりも「わが子についての責任をほかの誰にも先んじて引き受けようとする意志」をもつことだと思うからです。
「親であること」に失敗した場合でも、その責任を自分以外の誰にも押し付けない、という自制だけが親を親たらしめていると思うからです。
子どもの親になるということは非常に重い責任を、「誰にも代わってもらうことのできない責任」を引き受けることだということを、若い人たちには繰り返し告げるべきだと思います。
子どもは「ぬいぐるみ」のようなかわいくてふにゃふにゃしたであるばかりではありません。
それを保護し、養育するものの「全面的責任」を要求せずにはいない存在です。そして、そのような責任に耐えることができるだけの成熟を要求せずにはいない存在です。
「そんな重い責任なんか負いたくない。成熟なんてしたくない」というひとには「では、親になるのはあきらめなさい」と言うほかないと思います。

それで日本の人口が減ったって、しかたがないと私は思います。
そして、今日本の人口がどんどん減っているいちばん大きな理由は、「自分以外の誰かについて、全面的な責任なんか負うのはいやだ」と若い人たちが思いはじめたからではないでしょうか。
私はそれはそれでしかたがないよね、と思います。