3月28日

2001-03-28 mercredi

吉岡さんレポートありがとうございました。
買売春に限らず、性の問題は、私のもっとも不得意とする領域でありますので、あまりたいしたコメントはできないかと思いますが、とにかく思いつくままに書きます。

この分野が不得意なのは、「性を自分の主力商品とする」ような女性のがわの意識のあり方と、「性的快楽を金銭で買える」と信じている男性のがわの意識のあり方の、どちらをも私が「きらい」だからです。
性を商品とすることを私が嫌うのは、それが「お金の稼ぎ方」としていびつなつくりになっていると思うからです。
ほんらい「お金を稼ぐ」というのは、ある種のスキルを身につけ、その行使をつうじて、「顧客のレスペクト」と「適切な対価」を得る、というただそれだけのことです。
その習熟が困難であり、かつ社会的に有用なスキルを身につけたひとは、高い対価と高いレスペクトを受け、「職業人」としては有利なポジションにつくことができます。
「よい仕事」というと、普通の人は「高い給料」をまずに思い浮かべるようですが、私はそういうふうには考えません。
「よい仕事」というのは、ほんとうは「周囲から高いレスペクトを受ける仕事」だと私は思います。
仕事をしているときに私たちを何よりも不快にさせるのは、「エゴイスティックなクライアント」、「不公平な上司」、「無能な同僚」、「反抗的な部下」などの「人間的ファクター」です。どれほどの高給であろうと、どれほど楽な仕事であろうと、私たちの神経はそれに長く耐えることは出来ません。
人間的ファクターが充実している労働環境にいれば、(「フレンドリーなクライアント」「公正な勤務考課のできる上司」「有能な同僚」などなど)私たちはかなり過酷な労働でも、相当の薄給でも、それをたのしむことができます。(だって、職場に行くのが楽しいんだから)
ふつうのひとはそのような「楽しい労働環境」を求めて、努力をします。

性的商品は、その逆のものです。
性の商品化には「職業訓練」が必要とされません。(むしろ売春婦の低年齢化が示すように、「職業訓練されていないこと」がこのマーケットでは市場価値を形成したりします。)
性の商品化は「顧客のレスペクト」を得るためのものではありません。むしろ、「顧客によっておのれの人間的威信をふみにじられること」の対価としていくばくかのお金を受け取るシステムです。
私は買売春の経験がありませんので、そこでどのような快楽が売り買いされているか知りませんが、村上龍を読む限り(私の性風俗に関する情報源はほとんどこの人なんですよね、そういえば。私の性意識に歪みがあるとすれば、それは村上龍さんのせいです)、主力商品は、身体的快楽そのものではなく、他人を自分の快楽に奉仕する「道具」にする、という「主人と奴隷ゲーム」にかなり傾いているように思われます。

たしかに売春は条件が整った場合には、相対的に「高い対価」で、「習熟するのに努力を要さない」商品を売ることの出来る「有利な仕事」のように思えるかも知れませんが、それは「仕事をする」ということのいちばん大切な部分、「その活動を通じて周囲の人々のレスペクトを獲得する」という点が脱落している点で、(反対にしばしば、「その活動をつうじて周囲の人々から軽侮されることで収入を獲得する」点で)職業としては「成立しない」というのが私の考えです。
「売春」を職業として認知すべきだ、ということを主張する知識人たちがいます。(宮台真司や上野千鶴子はそういう意見です。)私は売春は職業ではないから、「職業」としては認知すべきではない、と思います。

「そういうことをしていると、誰からも尊敬されなくなるよ」

というのが売春している女の子に言うべきいちばん当たり前の言葉だと思います。
「他者からの敬意」なしに人間は愉快に生きることができない、というのは社会生活の原則ですから。
もちろん、そういう大事なことを知らなくても別に構わないのです。

「誰にも迷惑かけてないんだから、いいじゃない」

おっしゃるとおりです。
ただ、そういう人には、この先どういう生き方を選ぼうとも、「他人の理不尽な欲望にこずきまわされて暮らす」という未来しか待っていないような気がします。

「買春する男」に対しての嫌悪感もそれと同型的です。
私の目には、このひとたちは「性を売る女の子の自尊心を金で買って、ゴミ箱に棄てている」ように見えます。
どうして、他人の自尊心をわざわざお金を出して買って、その上、それを踏みにじって、唾を吐きかけて、ごみ箱に棄てるようなことをしたいのか、私にはよく分かりません。
社会生活において「十分な」レスペクトが得られない人が、他人の自尊心を傷つけることでバランスをとっているのかもしれません。

「そんなことないよ、社会的地位が高くて、偉い人だって買春しているじゃないか」

という反論があるかもしれません。
私は「十分なレスペクト」と言っているのです。
そういう人たちは私たちからみたらずいぶん偉そうにしているように見えても、本人は「もっともっと」と思っているかもしれません。(いまの日本の総理大臣は社会的にはたいへん偉い人ですが、おそらくご本人は「尊敬されかたが足りない」とものすごく不満であるだろうと思います。だから仮に彼が買春常習者であると聞いても私はぜんぜん驚きません。)

私は買春をしたことがありませんが、それは、「私は尊敬のされ方が足りない」と思ったことが一度もないことに関係があると思います。
それは別に私がいつもいつもたっぷりと尊敬されていたということではありません。(そんなわけないじゃないですか)
そうではなくて、自分が「どの程度の尊敬に値する人間であるか」についての主観的な判断と、世間さまの私への評価が一致していたからです。
私が「こんな生き方してるとだめだよなあ」と思っているときには、誰も私を尊敬してくれず、私が「ここんとこ、がんばってるなあ」と思っているときは、いろいろな人がほめてくれる。自己評価と他者からの評価が適正にリンクしていると、「自尊心問題」というのは発生しないわけですね、これが。

つまり、買春するしないの分岐点は、性欲の多寡などではなく、「おのれの社会的ポジションに対する客観的評価の適正さ」つまり私のいうところの「知性」の多寡によって消される、というのが私の考えであります。(ちょっと強引だけれど)
そして、私は「知性のないやつ」は男女を問わず、大嫌いなのであります。
以上のような理由によりまして、私は買売春関係者にたいしては、「バカは嫌いだ」のひとことでこれを私の視野から排除する、という暴挙に出ているわけであります。

吉岡さんは結論で「援助交際をする女子一人一人に正確な性の知識等を教えること」の重要性を指摘していました。

「援助交際をするからにはそれなりのリスクが個人にかかってくる。それらの対応を適切にできるような知識を授業で教え込むことである。」

リスクというのは「変態男に八つ裂きにされる」というようなレヴェルのことだけではありません。「私の自尊心を殺す他人に加担する」ことによって壊れるものがあり、それは一度壊れたら、もとにもどすのがたいへん、ということです。
あるいは「元・援助交際少女」が幸福な成人女性としての生活を送るケースというのもあるのかもしれません。けれどもそれは「援助交際してお金稼げて、楽しかったわあ」というような気楽な総括の結果ではなく、その経験のマイナス面と向き合って、おのれの経験の意味を痛みに耐えて言語化することができたレア・ケースに限られるでしょう。

吉岡さんは援助交際にブレーキをかけるものとして次の三つを挙げていました。
「自己規制、親の目、恐怖心」
「ナマハゲ」論に書いたように、社会規範は「恐怖心」というかたちをとることがあります。
だから恐怖心を持つことと、社会性を持つこととは同義ですから、それはとりあえず「よいこと」です。
売春を自制する理由としては場合によっては恐怖心だけで足りるかもしれません。
でも、成熟するためにには、それだけでは十分ではありません。
そして、「成熟すること」なしに私たちは幸福になることができないと私は思います。