3月25日「笑い」について

2001-03-25 dimanche

植田さんの「これで日本は大丈夫?」は「笑い」について、でした。

「『笑い』というものが、最近あまりにも多く、求められてすぎてはいないだろうか、と私は思う。」「しかし、今、最も支持されている『笑い』、人を下げ、馬鹿にすることにより生まれる『笑い』である。」

というのが植田さんの第一の問題提起です。
第二の問題提起は、「ノリ」について、です。

「90年代前半からノリは対人関係におけるコミュニケーションの重要な要素となっていた。『ノリ』という、後先を考えない、その場・相手の雰囲気にあわせて行動しようとする意識は現代人にはとても心地よく、安心できるものであるようだ。そのノリという感覚は、また『笑い』を求める感覚とシンクロしていて、ノリのいい奴イコール面白い奴という方程式が完全にできあがってしまったのである。そのノリは、とどまるところを知らず、また、そこから外れることは、仲間からの離脱を意味する。だから、ノリは時に大きな事件を引き起こすことも少なくない。」

「ノリ」はコミュニケーションの内容とは関係がありません。
そうではなくて、「私はいまあなたとコミュニケーションできている」という事実を確認するためのリアクション「よさ」(おもに反応速度の「速さ」)をショウ・オフする行為のことだと思います。
「ノリがいい」というのは、「コミュニケーション感度がいい」ということと、とりあえず同義だとみなしてよいでしょう。
私たちがいちばんよく用いる「ノリのよさ」の表示は、相手の言葉に対して「笑う」ことです。
ここで二つの問題が一つにつながります。
「笑い」と「ノリ」。
さて、ではその問題をいっしょに考えてみましょう。
「笑い」はほんらい、「コミュニケーションが成立している」ことを相手に表示するためにたいへん効果的な身体表現です。
にこやかな微笑みは「歓待」を意味しますし、大きな笑い声は「同意」を意味します。困ったような笑みは「え、ちょっと分かんない?」とか「うーん、どうかなあ?」という「ためらい」や「牽制」を意味します。
時代劇や古めかしい英雄ドラマでは主人公が登場してきて、ワルモノたちを退治するときにたいてい「わははははは」という笑い声を発します。
むろん旗本退屈男や鞍馬天狗や月光仮面はワルモノたちに友愛のメッセージを送っているわけではありません。この笑いは「破邪顕正の笑い」、「呪としての」笑いです。笑いによって、相手を「呪殺」することだってできるのです。
笑いの応用範囲の広いこと。
ですから、うまく笑いを使い分けるだけで、言葉を用いなくても、私たちは十分なコミュニケーションすることができます。
もし現代の笑いに何か不都合があるとすれば、それはほんらいの笑いのもつそのようなメッセージの多様性が失われ、それだけではもう十分なコミュニケーションが成り立たなくなった、という点にあるのかも知れません。
現に、私たちの社会からはもう「破邪顕正の笑い」というものが消えつつあります。
『桃太郎侍』の高橋英樹はときどき「わははは」と笑っていましたが、『暴れん坊将軍』の松平健はもうワルモノを斬るときに片頬でしか笑いません。石坂浩二の『水戸黄門』もたぶん笑わないでしょう。それはつまり、「破邪顕正の笑い」という表現手段を私たちの文化は失ったということを意味しています。
その代わりに私たちが多用しているのが「ノリのよさを示す笑い」です。
それは「歓待」や「同意」や「懐疑」ではなく、単に「コミュニケーション感度のよさを示すためだけで、特別のメッセージを含まない笑い」です。
その笑いが「根本的な何かに不十分なものを感じ、それを埋める要素として笑いに頼ってしまう」という植田さんの指摘は、その通りだと思います。
そこに欠けている「不十分なもの」とは、おそらくコミュニケーションの「内容」の豊かさでしょう。
誤解しては困るのですが、「コミュニケーション感度のよさを示す笑い」はコミュニケーションの形骸化を意味しているわけではありません。というのは、コミュニケーションにおいていちばん大事なことは、コミュニケーションの「内容」ではなく、「形式」だからです。
言い換えると、「コミュニケーションが成立していること」をおたがいに確認し合うことの方が、「コミュニケーションを通じて行き交うメッセージ」よりも大事なのです。
これについては『現代思想のパフォーマンス』のレヴィ=ストロース論から少しだけ引用することにしましょう。

「おはよう」も Good morning も Bonjour も意味するところは同じである。それらの言葉は「あなたは早く目覚めた」とか「今日はよい日である」とかいう事実認知を行っているのではない。「おはよう」は人間から人間への直接な語りかけであり、祝福の遂行である。「おはよう」と語りかけたものは「今日一日があなたにとってよき日でありますように」という祈りを贈っているのである。
レヴィ=ストロースのコミュニケーション論の知見を信じるならば、祝福の贈りものに対しては必ず返礼義務が発生する。
祝福はあらゆる贈与ががそうであるように、祝福を受けた側に、心理的な負債感を発生させる。この負債感は「受け取った以上のものを返礼し、相手に新たな返礼義務を課す」ことによってしか解消されえない。というより、そもそも「受け取ったのと、ぴったり同じだけ返す」こと自体が不可能なのだ。というのも、「最初に贈る」ということは、いわば「無からの創造」であり、純粋なイニシアティヴだからである。贈与の回路を立ち上げるということは、等量の返礼を返すことによってはけっして埋め合わせできないほどに過激で、無償で、冒険的な創造の行為なのである。
だから、「おはよう」の挨拶を贈られたものは、とりあえず受けた挨拶よりも少しでも多くのメッセージを発信することを求められる。「おはよう、いいお天気ですね」とか「おはよう、どちらへ?」というふうに。
外国語の初級読本にはたいてい次のような文例が出ている。

「こんにちは」
「こんにちは、お元気ですか?」
「はい、元気です。あなたは?」
「はい、私はたいへん元気です。ありがとう。ご家族はお元気ですか?」
「はい、うちの家族はみな元気です。ありがとう。あなたのご家族は?」

初学者はたいていここらまで読んだとき、ふと「この会話は、相手の言葉を繰り返しながら、終わりなく続くのではないか」という不安にとらえられる。さいわい教科書一頁におさまる行数には制約があるために、街角で出会った二人は終わりなき祝福の交換をどこかで打ち切って、右と左に別れることになる。
けれども、初学者の心に兆した「おなじ言葉を繰り返す終わりなき挨拶」というという不条理な予感は、じつはコミュニケーションの本質を正しく直感しているのである。
というのは、レヴィ=ストロースを信じるならば、コミュニケーションの本義は、有用な情報を交換することにあるのではなく、メッセージの交換を成立させることによって「ここにはコミュニケーションをなしうる二人の人間が向き合って共存している」という事実を認知し合うことにあるからだ。そして、私の前にいる人に対して、「私はあなたの言葉を聞き取った」ことを知らせるもっとも確実な方法が相手の言葉をもう一度繰り返してみせることであるとすると、心からコミュニケーションを求め合っている二人の人間のあいだでは、「相手の言葉を繰り返しながら」「ほとんど無意味な」挨拶が終わることなく行き交うことになるはずである。

「おはよう。」
「おはよう。」
「いいお天気ですね。」
「ほんと、いいお天気。」

というふうに。
(内田 樹、難波江和英『現代思想のパフォーマンス』、松柏社、2000年)

「私の前にいる人に対して、『私はあなたの言葉を聞き取った』ことを知らせるもっとも確実なもう一つの方法」が「笑ってみせること」です。

「おはよう」
「(にこ)」
「いいお天気ですね」
「(にこ)」

でも上の会話は十分成立しますから。
つまり、「ノリの笑い」だけが過剰に行き交っている現代のコミュニケーション事情とは、言い換えれば、

「私たちのあいだにはコミュニケーションが成立しているよね?」
「うん、成立しているよ」
「私の言うこと聞こえたよね?」
「うん、きこえたよ」

ということ「だけ」をえんえんと語り合っているというを意味しています。
それは決して悪いことではありません。むしろ、とても「よいこと」だと言ってもよいでしょう。
問題は、「その先」にさっぱり進まないとやっぱりちょっと退屈かな、ということです。
TV画面に「試験電波発信中」のサインが出ているのはTV受像器が電波をキャッチしている証拠ですから、画面にカラフルなテストパターン映像が出ていることはたいへんに喜ばしいことではありますが、それだけを「じっと」1時間眺めていても退屈ですよね。
「ノリの笑い」の交換は、試験電波発信中の画面と同じです。
とても大事なものではありますが、それだけでは「つまらない」のです。
「その先」へ進むためには、コミュニケーションの回路にメッセージを載せていかなければなりません。それはふつう「言葉」で示されます。
「真剣に人と向き合うこと」、「人と直に深く接する」こと、そのためには、適切な言葉の運用に習熟しなければなりません。
でも、「ノリの笑い」にくらべて、言葉で相手にきちんと伝わるメッセージをつくることはとてもむずかしい仕事です。
そのむずかしい仕事のためには訓練が必要です。
でも、みんなあまり「訓練」は好きではありません。
だから、「ノリの笑い」でとりあえず「流す」ことでその場をやり過ごそうとするようになるのだと思います。
たぶん。