3月22日

2001-03-22 jeudi

やれやれ。11日ぶりのオフである。
長い長い「死のロード」であった。(そのうち4日間は極楽スキーなんだけど。あれはやはり「オフ」とは言えないね。「ハレ」の日だから。)

きつかったのは17日(土)の早朝に夜行で帰宅してから。お昼から合気道、午後3時から杖道の演武会、そのあと鬼木先生宅で正道会総会。

18日(日)は朝から夜まで正謡会新年会(といっても宴会じゃないんだよ。私は初舞囃子『猩々』のほかに、素謡二番『土蜘蛛』のワキと『藤戸』のワキツレ、地謡『船弁慶』『卒塔婆小町』『芦刈』、あとの時間はビデオ係。素謡『砧』のときについ爆睡)。
そのあと反省会。いつもなら下川先生のお小言を粛々として社中一同拝聴するのであるが、今回は新入門の「おじさん」が大暴れして大幅に時間超過。
「私が女に生まれていて、このおじさんが上司だったら、ぜったいに武闘派フェミニストなっていたな」とひしひしと感じさせてくれるタイプの「痛いおじさん」であった。

19日はご案内のとおり卒業式。そのあとるんちゃんとの「あと3回の晩御飯シリーズ」第一弾「芦屋シャンティのインド料理」。タカハシナヲコさんノリコさんご姉妹と「吹ける楽器はなんでも吹くぞ」笛方タキザワさんも登場して、「不思議な楽器」話で盛り上がる。

20日は卒業記念パーティのあと、清水学科長、松田教務部長の「慰労会」と上野新学科長の「激励会」。一滴もお酒をのまない学院チャプレンの爆走に全員あおられる。さらに二次会で、若手を中心にけっこうまじめに大学の将来について語り合うが、さすがに午後1時の帝国ホテルのシャンペンからはじまった昼酒、「司」での夕酒、「麦太郎」での晩酒で、あたまがくるくるしてきて、何を話したのか定かでない。

21日はたまったメールのご返事書きをしてから、上野先生と御影駅前で大学院申請書類の作成の打ち合わせ。そのまま大学へ走って合気道、杖道のお稽古。
終わってから、るんちゃんとの「あと3回の晩御飯」シリーズ第二弾「芦屋木繁の唐揚げラーメン」の予定であったが、残念ながら本日休業。やむなく御影の「もっこす」の具たくさんの「チャーシュー麺」をもって代える。
残る「第三弾」は私の手作り餃子である。これは今晩。ふたりで「シンプソンズ」を見ながら餃子を食べてビールを呑むのである。(娘と呑み交わすビールはうまい)

明日から日曜までは合気道の合宿で神鍋高原である。
そして、月曜にるんちゃんは旅だってゆく。
別れが近づいているせいか、ほとんど毎晩のようにるんちゃんが小さな子どもだったころの夢を見る。
夢の中のるんちゃんは当然「夢のように」かわいい。
走り寄って、その夢のようにかわいいわが子をぎうっと抱きしめて、「さあ、もう大丈夫だよ、お父さんが来たからね」とつぶやくと、私の身体の内奥から凄まじい「エネルギー」がわき上がってくる。そして、「おう、ワシがウチダじゃい。こん腐れ外道どもが。うちとこの娘に手えだしたらただすまんど。こら。うちの利息はたこおまっせ」と唐突に「竹内力」化してしまうという、なんだかよくわからないパターンの夢である。
もしかしたら、私の「闘争心」の大半は父性愛によってエネルギー備給されていたのかもしれない。
とすると、るんちゃんがいなくなったあとの私はどうなるのであろう。
「歯槽膿漏の狼」とか「狭心症のサラブレッド」とか「草食性のコブラ」とか、そういうへなへな様態のものに変化してしまうのであろうか。
どうしよう。
『リオ・ブラボー』のディーン・マーチンみたいに「闘争心を無くしてへろへろになったウチダ」に、「被害者」のみなさんが積年の怨みを晴らすべく報復の挙に出るというようなことはないのだろうか。
うーむ。
困った。


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ま、それはさておき。
昨日の「これで日本は大丈夫?」についていささかゼミの指導教員としてコメントを加えたいと思う。
インターネット上で公開ゼミを行われて、公開説教されては学生諸君はたまらんだろうが、大学というのがどういうところであるのかを広くお知らせする、という点ではなかなか効果的なものではないかと思う。(という鈴木晶先生のお墨付きもいただいたし)
西岡くん、植田くん、気の毒だが、「先駆者」の責務とおもって耐えてくれたまえ。
今日はまず西岡くんの「押し掛けお泊まり中学生」という論件からいきましょう。

「『押し掛けお泊まり』とは、『住所を調べあて、前連絡もなしに合宿所よろしく突然人の家に上がり込んで好き放題をする』事を言うのですが、つまり、地方に住んでいる中高生ぐらいの年齢の子が、都心で開かれるコンサートやイベント事などの為に、例えば音楽雑誌などの『文通希望』の欄や、自費出版物の奥付から住所を調べ出し訪ねて来て、宿泊費等を浮かす為に会場近くに住んでいる人の家をホテル代わりにするなどの行為です。」

それ自体は決して悪いことではないと私も思います。現に、うちにも先週六人の「押し掛けお泊まり女子高生軍団」が来ましたからね。みんななかなかよい子たちでした。(おふろのお掃除もしていったし)
しかし、それは例外的であるらしい。

「彼女たちは、皆がみな、一様に恐ろしいほどの非常識と、無知と、無邪気さを携えて、終電が過ぎるのを狙ったように真夜中に突然やってき、『電車はないし、今夜寝る所も行く所もお金も無いんです』を口上に、全く面識も無い人の部屋に上がり込み、家の中を勝手に漁り飲食物を要求するなど、傍若無人に好き勝手振舞った挙句に、コンサートのチケットや、本やCD・MD、現金などを平気で盗って行きます。」

これはひどい。
この原因として西岡さんは、ネット・コミュニケーションという新しいタイプの人間関係の発生を挙げています。

「このように目痛い人が増加して来た要因には、インターネットによる情報発信力があるのではないかと思います。チャットや掲示板、メールによって簡単に情報が行き来するにつてれて、押し掛ける側が相手に感じる「敷居」は低くなり、まだヴァーチャルな世界と現実との区別を付け辛い若年層にとっては、ネット上で繰り広げられる世界をそのまま実社会に持ち込みがちになります。それが「押し掛け」を助長してしまうのではないでしょうか。」

なるほど。この分析はなかなか鋭いものがあります。
現に、先日の「かしこ」さんなるヴァーチャル女子大生をめぐっては「なんというけしからん女子学生だ」という抗議のメールが何通か寄せられました。
現実世界とヴァーチャルな世界の敷居はたしかに低いです。(クスミさん、めっちゃ不評でしたよ。「かしこ」さん)

今一つの理由は「教育」の問題。
「最終的な要因には「親」(親の意識)が深く関わっている」と西岡さんは見ています。

「押し掛けをした子供の親は、こぞって子供と同じような意識・感覚でいたり、子供の事は放任でその責任も放棄、或いは、子供への愛で盲目になって泊めるのを渋った相手を罵倒する」。

この指摘が私には興味深く思われました。
「家庭崩壊」とか「家庭内暴力」とかいう言葉を聞くと、私たちは家族の成員がばらばらになっている、というふうな印象を受け取ってしまいますが、ほんとうに家族は解離しているのでしょうか?
むしろ、密着しすぎているのではないでしょうか?
家族同士が密着しすぎ、「同じような意識・感覚」を共有しすぎているせいで、家庭内が密室化し、そこが「ふつうの社会のふつうの常識」から遮断された、すごく風通しの悪い、濃密な空間になってしまっていることが、むしろ子どもたちの逸脱行動の原因になってはいないでしょうか?
新潟で9年間少女を密室に幽閉していた男は、家全体をその母親を含んだ、もう一回り大きな「密室」に化していました。
同質性の高い空間に自閉していれば、当然ながら、子どもはコミュニケーション能力が育ちませんし、自分とは「違う」感覚、「違う」価値観をもっている他人と「折り合う」仕方を学習する機会にも恵まれません。
親が子どもを放任する、あるいは、こどもに対する責任を放棄するということは、(例えば、「掃除当番をさぼる」というふうに)「親として責任をとること」という明確な「しごと」が何であるかを知った上で、あえてそれを放棄しているわけではないと思います。
おそらく、そのような親たちは「親としての責任をとる」というのがどういうことなのかよく分かっていないのではないでしょうか?
親の仕事とは、ひとことで言えば、「こどもを適切な仕方で社会化する」ということです。
しかし、自分自身が「適切な仕方で社会化される」経験を持たず、そのような訓育がなされている現場に立ち会ったこともない親には、とてもむずかしい仕事だと思います。
西岡さんは続けてこう書いています。

「『こういう事をすると、だれそれに叱られるからやめなさいね』という形でしか子供を叱る事が出来ない親が増えている昨今、正しい説教(教育)が出来るかというと、おおいに疑問を感じずにはいられません。」

私はこれにはちょっと別の考え方があると思います。
というのは、このようなしかり方自体は、決して間違ってはいないと思うからです。
たしかに「叱られるからやめなさい」は説明としては十分ではありません。
けれど、「とにかく、怒られるから、やめなさい」というのは、社会的規範の教え方の「常道」なのです。社会的な規範というものは決して「諄々と理を説けば、子どもにでも分かる」ような成り立ち方では作られていません。
例えば、子どもに「どうして19歳ではお酒呑んではいけなくて、次の日に20歳の誕生日になったらお酒を呑んでもいいのさ?」と訊ねられた場合に、その境界線の設定に深い意味がある、ということを説明できる人はいないでしょう。(私だってできません)

「そう決まってんだよ」

としか言いようがありません。

「先生にみつかったら怒られるぞ」

というような仕方のほかに有効な禁止法はありません。
それは「悪いことしてっと、ナマハゲに喰われっど」とか「はやく寝ないとトリゴラスがきちゃうよ」とか「言うこと聞かないと赤マントがさらいに来るよ」とかいうのと同型の恫喝であって、まったく論理的な説明になっていませんが、これこそが「しつけ」の本道なのです。
「親のロジック」を越えたところ、親の力及ばぬところに、「社会のロジック」があり、その象徴である「ナマハゲ」が到来したら、親がいくら懇願しても子どもは「喰われてしまう」という権威の「位階差」を教える、ということ、これは「子どもの社会化」のための大事なしごとです。
「家の外部」が存在し、そこでは「家の中」とは別のロジックが支配しており、「親」は、それに服属し、それを承認するほかないということ、「ナマハゲ」説話の類は子どもにそれを理解させるための人類学的なツールです。
つまり、「ナマハゲ」に対する恐怖を「親もまた実感している」ということを子どもに感じ取らせることがここではたいへん重要なのです。
そう考えると、西岡さんの次のフレーズが問題になってきます。

「『勉強は塾や家庭教師でしっかり教えていますので、学校では躾やモラルなどについてしっかりと・・・』などといった事を言っているような親が、痛い言動を繰り返す子供を産み出してしまっているのではないかと思います。」

このような言葉を口にする親はどうしてダメなのでしょう?
「(家ではなくて)学校でこそ、しつけやモラルなどについてしっかり教えるべきだ」と思っているからでしょうか?
その考え方自体は別に間違っていません。
現に、教育について無関心な親、あるいは仕事が忙しすぎて子どもを構う余裕のない親は、昔もたくさんいました。そういうこどもたちは家では「野獣」のように育てられていましたが、学校が親にかわって、彼らを訓育して、社会化する任をきちんとになっていたのです。
このような言葉を口にする親がダメなのは、「学校でしつけをしてほしい」と言っておきながら、本音のところでは、「学校」を権威としてぜんぜん承認しておらず、「学校でしつけやモラルなんか教えられるはずがない」と思っているからです。
ほんらい、学校は「ナマハゲ」と同一の機能を果たしています。
学校を子どものしつけやモラルの教化装置として効果的に機能させたいのなら、学校をとりまく地域社会全体が「学校を畏れている」か、あるいは「畏れているふり」をしなければなりません。
だって考えてもみてください。
もし、玄関からどやどやと闖入してくる「ナマハゲ」に対して、家で待ちかまえた親が

「くんのがおせーんだよおめーたちはよお。どっかで腰すえて呑んでたんじゃねーのか。まったくしょーがねーやろーだな。おいおい、土足であがんじゃねーよ。足拭けよ、うるせんだから、ウチのが。おっし、じゃ、はじめっか」

というような態度であった場合、その親のようすを見ていた子どもたちははたして「ナマハゲ」を畏れ、その恫喝に屈して「よい子」になろうと決意したりするでしょうか?
「学校では・・・」というようなことを口にする親の態度から子どもが学ぶのは、その言葉の内容(「学校ではしつけやモラルを身につけるべきだ」)ではなく、その言葉を口にしているときの親たちの「口ぶり」です。
学校は親がやりたがらない面倒くさい「汚れ仕事」をやっとけばいいんだよ、という「なめた」態度を親がしていれば、子どもはそのような社会的態度を瞬時に学び知り、それを自分もまた学校に対して繰り返すことになります。
子どもが学校に敬意を抱かないのは、親が学校に(無意識的にではあれ)敬意を抱いていないことを子どもが知っているからだと私は思います。

「押し掛けを起こす人たちを更正させるという意味での適切な対応策など、ありません。(…) 元々そのような痛い行動を繰り返す人が、生半な事で更正する事は少ないですし、そのような性質の人間だからこそ、痛い行為を繰り返しているとも言えなくも無いのではと思います。(…) 日本のトップと呼ばれる人たちの言動を見ていると、困った言動をする子供と大して変わらない大人の多い事に気付き、若者がどうだなどと言っていられる状況にこの国は既にないのだ、そんな思いが拭いきれなくなりました。」

まさにご指摘の通りです。
子どもたちの社会的行動は、本質的にはすべて年長者の行動の「模倣」です。
ただ、あらゆる模倣行動がそうであるように、モデルの「いちばん悪いところ」がいちばん真似しやすく誇張しやすいせいで、あたかも世代間に断絶があるかのように見えてしまうというだけです。
子どもたちの社会的行動はつねに大人たちの社会的行動の「醜悪な戯画」です。
いまの子どもたちに共通する「社会的規範の軽視」「公共性への配慮の欠如」「ディセンシーの欠如」「ほとんど自己破壊的なまでの利己主義」などは、その原型をすべていまの日本の「エリート」層の中に見ることができます。
子どもたちは親の真似をし、教師の真似をし、「成功者」たちや、指導者たちの真似をして、いまこのようになっているのです。
子どもを変えることは簡単です。
大人たちが変わればいいのです。
まず「私」が変わること、そこからしか始まりませんし、そこから「すべて」は始まるのだと思います。
「社会規範」を重んじ、「公共性に配慮し」、「ディセントにふるまい」、「利己主義を抑制する」ことを、私たち一人一人が「社会を住み良くするためのコスト」として引き受けること。
遠回りのようですが、これがいちばん確実で迅速な方法だと私は思います。