3月21日

2001-03-21 mercredi

春休みレポート「これで日本は大丈夫?」に次々と力作が寄せられている。(今回は「かしこ」さんのようなヴァーチャル女学生ではなく、ほんとうのゼミ生さんたちです。)
面白いテーマなので、ご紹介しましょう。
最初は西岡さんの「押し掛けお泊まり中学生問題」では、西岡さん、どうぞ。

近年、東京都内を中心に「押し掛けお泊まり中学生」が増殖しています。
中学生に限らず、高校生、大学生、二十歳を越した大人でも、「お泊まり中学生」といわれる行為をする人が増えているのですが、ではこの「押し掛けお泊まり」とは、一体何なのか、というと、『住所を調べあて、前連絡もなしに合宿所よろしく突然人の家に上がり込んで好き放題をする』事を言うのですが、つまり、地方に住んでいる中高生ぐらいの年齢の子が、都心で開かれるコンサートやイベント事などの為に、例えば音楽雑誌などの「文通希望」の欄や、自費出版物の奥付から住所を調べ出し訪ねて来て、宿泊費等を浮かす為に会場近くに住んでいる人の家をホテル代わりにするなどの行為です。
これだけを聞くと、大した問題でも無く「泊めてあげればいい」と思えてしまいますが、その実態を知ると、これからの日本を憂えずにはいられないような、痛い(この「痛い」は、見聞きするに堪えない。また、いたわしい。ふびんである。はなはだしく。閉口する。といった意味ですが)言動の子供ばかりが日本に増殖しているように思えてしまいます。
彼女たちは、皆がみな、一様に恐ろしいほどの非常識と、無知と、無邪気さを携えて、終電が過ぎるのを狙ったように真夜中に突然やってき、「電車はないし、今夜寝る所も行く所もお金も無いんです」を口上に、全く面識も無い人の部屋に上がり込み、家の中を勝手に漁り飲食物を要求するなど、傍若無人に好き勝手振舞った挙句に、コンサートのチケットや、本やCD・MD、現金などを平気で盗って行きます。
東京都内にその被害が多いのは、主にそういったコンサートや大規模なイベント事が行われるのが、たいてい東京都内や、東京近郊の場所である、というのが原因だと思われます。このような世も末な事態は、昔からあったようですが、近年この「押し掛けお泊まり」は増えて来ており、警察沙汰となる事も少なくないようです。
このように目痛い人が増加して来た要因には、インターネットによる情報発信力があるのではないかと思います。チャットや掲示板、メールによって簡単に情報が行き来するにつてれて、押し掛ける側が相手に感じる「敷居」は低くなり、まだヴァーチャルな世界と現実との区別を付け辛い若年層にとっては、ネット上で繰り広げられる世界をそのまま実社会に持ち込みがちになります。それが「押し掛け」を助長してしまうのではないでしょうか。
そして更に、そのようなイベント事への参加のし易さの引き金となっているのもネットではないかと考えます。交通手段、参加の為のノウハウ、行動に移す時の同志や仲間は手軽にネット上で見つける事ができます。このような情報入手の多様化によって若い彼女達がコンサートやイベントに参入しやすくなり、参加人数が増えた結果、「泊まる所がないなら、押し掛けよう」「お金が無いなら、そこにあるのを貰えば(盗れば)いい」と言うような、短絡的な思考をしてしまう人の割合も増えてしまったからに他ならないと思います。
ですが、最終的な要因には「親」(親の意識)が深く関わっているのではと思います。
様々な「押し掛け」に纏わる話を聞いてみても、たいていの場合が、押し掛けをした子供の親は、こぞって子供と同じような意識・感覚でいたり、子供の事は放任でその責任も放棄、或いは、子供への愛で盲目になって泊めるのを渋った相手を罵倒する、というパターンです。
「こういう事をすると、だれそれに叱られるからやめなさいね」という形でしか子供を叱る事が出来ない親が増えている昨今、正しい説教(教育)が出来るかというと、おおいに疑問を感じずにはいられません。「勉強は塾や家庭教師でしっかり教えていますので、学校では躾やモラルなどについてしっかりと・・・」などといった事を言っているような親が、痛い言動を繰り返す子供を産み出してしまっているのではないかと思います。
そして、世の中の絶対数的な非常識人の割合が増えて、しかも傍若無人ぶりのレベルも高くなり始末に終えなくなっているのが現状ではないかと思います。
これらのような「押し掛けお泊まり中学生」の例の他にも、日常の社会生活の中でも、一般的レベルの常識を持ち合わせていない若者による目痛い行動をよく見聞きしますが、21世紀のこれからの日本を背負って立つであろう若い者がこんな事で、日本は本当に存続していけるのだろうかと、憂えて仕方がありません。
適切な対応策といっても、「お泊まり中学生」に対する適切な対策なら可能ですが、その中高生を根絶させる為の対応策はというと、一朝一夕に出来るようなモノではないでしょうし、むしろ、これからこういった痛い発言・行動をする人間はもっともっと増えて来るのだろうと思います。
端的に言ってしまえば、押し掛けを起こす人たちを更正させるという意味での適切な対応策など、ありません。あるとすれば、本人に自分のしている事への罪悪観念を呼び起こして、彼女達自身がその己の姿に気付く事ではないかと思いますが、元々そのような痛い行動を繰り返す人が、生半な事で更正する事は少ないですし、そのような性質の人間だからこそ、痛い行為を繰り返しているとも言えなくも無いのではと思います。
このような性質の中高生が増えた事については、日本語が変化していったように、戦後から現在に至る人間の質の変化というか、「近年多発する未成年者の犯罪」にも似た空気を感じますが、時代や歴史の流れによってその親の世代から、必然的に社会が変わってしまったからではないかと思います。
その上に、顔を上げて日本のトップと呼ばれる人たちの言動を見ていると、困った言動をする子供と大して変わらない大人の多い事に気付き、若者がどうだなどと言っていられる状況にこの国は既にないのだ、そんな思いが拭いきれなくなりました。

はい、西岡さん面白いテーマをありがとうございました。
これは「他者をいかに歓待するか?」というたいへん大きな問題にリンクしているので、ちょっと時間をかけて議論したいですね。
次は植田さんです。

テレビの番組表を見ていて、正月や、番組改編時の特番などに特に多く見られるジャンルの番組がある。バラエティ番組である。クイズ番組を含めトークショウや、料理にいたるまで、バラエティ番組一つにしてもとても広い幅がある。そして、その中で最も重要視されている項目。それが、「笑い」である。唇をつりあげるだけの微笑みであるとか、嬉しいときに自然とこぼれる笑い、日々の生活で何気なく繰り返している愛想笑いなど、「笑い」にも多くの種類がある。その「笑い」というものが、最近あまりにも多く、求められてすぎてはいないだろうか、と私は思う。
バラエティ番組の目的は、そのショウにより人を楽しませることである。しかし、最近の番組は、人を楽しませることが人を笑わせることとイコールになってしまいがちである。その人を笑わせるという風潮はバラエティ番組に限らず、ほとんどの番組にも浸透しつつあり、今や「笑い」は、出演者達においても大きな重大要素となってきている。例に挙げると、本来ならば音楽要素を評価されるはずのミュージシャンでさえも、トーク番組での「笑い」の要素が、そのイメージに大きく影響を与えてしまったりするという状況である。
以前、「笑い」というものは話し手の巧みな話術や、小粋なジョークで生み出されていた。洋画などを見ていてそのやりとりに思わず吹き出してしまうというように、そのような「笑い」は今でももちろん存在している。すばらしいコメディアンは数多く活躍しているし、彼らの「笑い」は絶えることはない。自らを下げ、周りをわかせるという「笑い」に関しては、吉本新喜劇が有名であるが、この吉本新喜劇の台頭もそういった「笑い」を求める現代の風潮のなせるわざであると私は思う。しかし、今、最も支持されている「笑い」は、それとは全く正反対のもので、人を下げ、馬鹿にすることにより生まれる「笑い」である。
では、なぜ「笑い」がこれほどに重要視されるようになってきたのだろうか。これには、笑いを求める者、与える者の両者に要因があると思われる。まず一つに、それは、「ノリ」という現代人の感覚が問題であると私は思う。90年代前半からノリは対人関係におけるコミュニケーションの重要な要素となっていた。「ノリ」という、後先を考えない、その場・相手の雰囲気にあわせて行動しようとする意識は現代人にはとても心地よく、安心できるものであるようだ。そのノリという感覚は、また「笑い」を求める感覚とシンクロしていて、ノリのいい奴イコール面白い奴という方程式が完全にできあがってしまったのである。そのノリは、とどまるところを知らず、また、そこから外れることは、仲間からの離脱を意味する。だから、ノリは時に大きな事件を引き起こすことも少なくない。
もう一つは、すべての人々において、自分の一番すべき仕事の不足部分を補うことに「笑い」を用いるという風潮があるということである。それは、役者であったり、ミュージシャンであったり、制作であったり、プラスアルファの要素としてではなく、根本的な何かに不十分なものを感じ、それを埋める要素として笑いに頼ってしまうのである。そうすることによって、彼らはつぎはぎの100%の力を発揮することができる。
昔と比べて、芸能界での地位が大きく変わったのは「笑い」に携わる仕事をする、バラドル(バラエティアイドル・タレント)や芸人達である。彼らが出演枠を占めるということは、これからも「笑い」を求める風潮は、当分変わることはない。
こういった事態を改善するためには、まず、人々がノリに流されない自分というものを持つことが大切であると思う。それも、孤立するというのではなく、真剣に人と向き合うことをおそれないことである。現代ではメールや携帯電話など、人と直に深く接する機会を奪う仲介者が多く存在する。そんな中で、ノリだけを求めることなく、自己を確立し、なお人と深く接するのは少々困難なことかもしれないが。
そして、もう一つは、誰もが本物を求め続けることである。「笑い」に頼らなくても100%の力を発揮できる自信と技量を誰もが追い続けることが、何かにつけて「笑い」を求める風潮を薄れさせていくだろう。
しかし、「笑い」そのものは否定してはならない。ユーモアはいつも人々を、明るく、幸せにしていく。その重大さも、決して忘れてはならないものだと、私は思う。

「笑いの変質」についての植田さんのレポートでした。どうもありがとう。
これもまたコミュニケーションの問題に深いところでふれているようです。
それぞれについていろいろとコメントしたいことがあるのだけれど、いまちょっと時間がないので、またあした。
ほかのゼミ生諸君もそろそろ締め切りだよ。