3月12日

2001-03-12 lundi

私も株主(エンジェル投資家ね)であるところのビジネス・カフェ・ジャパンは『エスプレッソ』というお洒落なビジネス誌を刊行している。
これは『学士会会報』と『映画秘宝』と並んで、私が定期購読しているレアなメディアである。
このビジネス誌には、平川克美くんがときどきかっこいい論文を書いている。
今回の第四号には「Linuxパラドクス-IT革命の本質とLinux」という論文を寄せている。
何度も書いたが、平川くんは私の「鏡像自我」である。
「鏡像自我」というのは、「他我」などというなまやさしい代物ではなくて、その思考プロセスそのものが、テクストを読んでいると「まるで自分の思考回路をたどっているかのように」私の意識に直接的かつ根源的に現前してしまうという、フッサールも裸足で逃げ出す「共同主観性」の相方である。
さて、その平川君の今回の論文はLinuxのお話である。
うちの学生さんの中にはLinuxなどといっても Lux 石鹸と区別できない困った子もいるかもしれないので、ちょっと説明するね。
これについては私も実はあるところにちょっとだけ書いたことがある。
去年の5月のビジネス・カフェ・ジャパンの創立パーティのときに、Linux 関連のヴェンチャーの人がプレゼンをしていて、それがあまりに面白かったので、そのあと書いたのである。そのまま採録。

Linuxの話をしよう。
「Linuxって何? だいたい、なんて読むの」と戸惑われている方が少なからずおられると思う。
「リナックス」と読む。
いまやビル・ゲイツのウインドウズ王国の世界覇権を脅かしている新しいOSの名前である。
「OSって・・・何ですか?」
おお、すまなかった。OSというのは、(私もよく知らないが)「オペレーティング・システム」のことである。
言い換えても、少しも分かり易くならないが、手元のパソコン用語辞典によるとパソコンのするさまざまの仕事のうち「料理のしたごしらえ(じゃがいもの皮むき)みたいな」泥んこ仕事をやる基本ソフトのことである、と絵画的に説明してある。(ありがとう小田嶋君。)
あの小さな箱のなかで、小さなコックさんがいそいそとじゃがいもの皮むきをしている姿を想像するとなんとなく心が温まるが、実はこのOSをパソコンの世界ではMS-DOS以来マイクロソフトが(マックOSを蹴散らして)一元的に仕切ってきたのである。(ワークステーションの世界ではUNIXの独占体制。)
つまりどんなパソコンでも、「コックさん」は同じ「コック派遣業者」からしか採用できない、という日々が続いていたのである。(で、当然にもけっこう高額の「派遣料」と取り立てていたわけだ、マイクロソフトさんは。)
しかるに1991年のある日、フィンランドの天才ハッカー、リナスさんがまったく新しいOSのリナックスのアイディアを提唱して、それをインターネットで公開し、このOSの開発を全世界に呼びかけたのである。
この「誰でも参加できるOS開発」というプロジェクトにヴォランティアで参加したコンピュータ・フリークが全世界に無慮10万人。その人たちが朝な夕なに知恵を絞り、インターネット上で意見を交換しあい、アイディアを共有し、またたくうちにリナックスは異常な「進化」を遂げてしまい、いまなお日進月歩ならぬ「分進秒歩」の変容を遂げつつあり、いまやスーパーコンピュータ市場では、UNIXを駆逐する勢いなのである。
リナックスの特徴は、もとが「無料」ということと、(どういう仕掛けかがまるごと公開されているので)改造が自由ということと、全世界のヴォランティアによる現在進行的共同開発なので問題点の修正が瞬時に行われるという点にある。
これは大変なことである。
画期的に堅牢で信頼性の高いOSをつくったリナスさんは、これで天文学的な利益を手に入れることができたのに、それをせず、
「ねえ、みんなでもっとこのOSに磨きをかけようよ」
と無料で公開してしまったのである。(ご本人はいま米国でサラリーマンをしている。)
リナックスOSの特許をとれば彼は大富豪になれた。しかし彼はその道を選択しなかった。
自分の「発明」をできるだけ多くのひとの無償の協力によってさらに洗練させること、それによって安価で堅牢なコンピュータを市場に提供することの方が自分ひとりがリッチになることよりずっとすてきだ、と彼は思ったのである。
なんて偉い人なんだ。
「自分ひとりがお金もちになるより、世界中のひとが少しでも便利になるほうがいいから」と考えたのである。
だが、リナスさんは決して無欲の人ではない。
リナスさんはOSのアイディアを得た。そして、それがインターネットを通じて、全世界を駆けめぐり、無数の天才的プログラマーたちの好奇心を刺激し、彼らのアイディアを次々と吸い上げて地球的なプロジェクトに膨れ上がるさまを「この眼で見たい」という強烈な欲望に捉えられたのである。(たぶん)
メルセデスやプール付きの家などより、自分の名前を冠したOSが世界標準に「進化する」のを見る快楽をリナスさんは選んだ。
これは欲望のあり方としてきわめて健全であると私は思う。
なぜ、健全であるかというと、これは一種の「先祖帰り」を果たしているからなのである。
どういう点が「先祖帰り」であるのか。ちょっと説明が必要だね。

私たちはビジネスというものをする。
私たちは貨幣を作りだし、市場を形成し、商品を売り買いしている。
しかし、なぜそんなことをしているのか、その本当の理由については私たちはふだんあまり考えない。
「何言ってんだか。ビジネスは金儲けだよ」。
ふむ、君は同語反復していることに気づいていないようだね。
そのへんを闊歩している元気な若いサラリーマンを誰でもいいから捕まえて、尋ねてみたまえ。
「貨幣て何? 商品て何? 市場て何?」
おそらく誰も答えられぬであろう。(マルクスを読んでいる人は別だけれど、残念ながら「マルクスを愛読しているサラリーマン金太郎」などというものは存在しない。)
答をお教えしよう。

貨幣や商品は「くるくる動き回るもの」である。
市場は「ものがくるくる動き回る場所」である。

以上。
(こんなことを書くと『資本論』講義のノート作りで骨身を削っているワルモノ先生はむなしさのあまり卒倒するかもしれない。ごめんね、いつも話が雑で。)
どうしてそういうことになるかと言うと、私たちは何かがくるくる動き回るのを見るのが大好きなだからである。
それなしでは生きてゆけないのである。
理由は知らない。
三浦雅士の説によると、ネアンデルタール人と現生人類の祖、クロマニヨン人を隔てる決定的な違いは、クロマニヨン人は「何かと何かを交換する」ことが好きで好きでたまらなかったという点にある、という。
ネアンデルタール人の行動半径は、その使用器具の原材料の入手源から見て約50キロ。これに対して、クロマニヨン人になると、彼らが使っていた道具の材料のとれる場所は一気に数百キロにまで増大する。別にクロマニヨン人がネアンデルタール人の十倍走り回ったからではない。交易というものをしたからである。
装身具用の貝殻とか珊瑚とかいうものは海岸地帯から千キロ近く離れた内陸部でも発見されている。
三浦はこう書いている。

「人間は必要に応じて物を交換すると普通は思われている。だが、ネアンデルタール人からクロマニヨン人への決定的な飛躍は、むしろ逆に、交換が欲望を生み、必要を生んだことを教えている。」(『考える身体』)

海岸近くのひとはたくさん魚が獲れ、山のひとはたくさん野菜がとれるので、それぞれあまった魚とあまった野菜を交換したのが交易の始まりである、というふうに普通は考える。(私が習った頃の小学校の教科書にはたしかにそう書いてあった。)
実は、これが逆なのである。
クロマニヨン人はとにかく交易がしたかったのである。
それで海岸のひとたちは「必要以上に」魚を獲り、山の人は「必要以上に」野菜を獲ったのである。要るだけ獲っていれば、別に気楽に暮らせたのに、交換したくてたまらないものだから、むりやり多くを採集し栽培する。かくして労働が発生し、分業が発生し、貧富の差が発生し、階級が発生し、国家が発生したのである。
というのが経済人類学ならびに考古学の近年の説である。
大事なのは、物と物がとにかく交換されることである。
かくして貨幣が登場する。
貨幣はひさしく「何かと何かの交換」を加速するための最良の、もっとも効率の良い装置であった。だから、貨幣自体にはほんらい何の価値もなくて構わない。というか、使用価値みたいなものがあっては困るのである。
金貨とか銅銭とかいうのは貨幣としてはほんとうは「邪道」なのである。(ペンダントにしたり、文鎮にしたりして退蔵するひとがいるから。)
貨幣はできるだけほかに使い途のないへらへらしたもので、すぐに消え失せたり、燃えたり、破れたりするのがよろしいのである。
中世イタリアの商人は、さらに効率のよい装置を求めて「クレジット」や「為替」を発明した。こういうものはもう実体がない。完全にヴァーチャルである。
いまではデジタル・マネーである。
私たちはそれが可能な商品については、お店まで行って財布を開けてお金を払うよりも、家のパソコンからカードのナンバーを打ち込むだけでものを買う方を選ぶ。
その方が価格が安かったり、品質のよいものが手には入るからではない。(いまのところほとんどの商品はインターネットで買うほうが割高だし、手にとって品質をチェックすることだってできないからスカをつかまされる可能性も高い。)
にもかかわらず、私たちが電子取り引きに魅了される。
それは、単にそのほうが「物が速く動く」からである。
私たちは「物と物ができるだけ速く、できるだけ大量に交換される」事態に抗しがたい魅力を感じてしまうのである。
それはクロマニヨン人の子孫なんだから仕方がないと私は思っている。

で、リナックスの話。
リナックスの発明者、リナスさんは

(1)リナックスOSの特許でたくさんお金を手に入れる、
(2)リナックスのソースコードを無料公開してOSが「進化する」のを見る、

という二つのオプションを前にして、ためらわず(たぶん)(2)を選んだ。
これはリナスさんが博愛主義者であることを意味しない。
彼はおのれの「クロマニヨン性」に忠実だったということである。
その本来の社会的機能に即して言えば、貨幣に価値があるのは、それが交換を加速する場合に限ってのことである。
貨幣以上に速くかつ大量に「物と物の交換」を促進するものがある場合、クロマニヨン人の血を引くものは、それを「貨幣以上に貨幣的なもの」と判定するはずである。
リナックスOSのインターネット上での無料公開は10万人規模の「データの交換」、「アイディアの交換」、「エールの交換」、「罵倒の交換」などを可能にする。
もちろん貨幣をつかってもOS開発はできる。(マイクロソフトがしているように)
しかし、有料でのOS開発の現場でなされる「交換」と無料OSの開発においてなされる「交換」ではその規模の桁が違う。
リナックスOSの世界標準化は「マイクロソフト帝国」の終焉をも意味している。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という『平家物語』の冒頭も「歴史は階級闘争の歴史である」という『共産党宣言』の一節も、その意味するところは同じである。
交替がなされなくてはならない。同じものが同じところにとどまっていてはならない。ひとたび権力を掌握したものは、すみやかにその座を次のものに譲らなければならない。
理由は知らない。
おそらく、同じ物が同じ物のまま同じところにとどまっていることに、私たちの「クロマニヨン人」性が耐えられないからだろう。
平家が滅びたのと同じ理由で、マイクロソフト帝国もしずかに「歴史のごみ箱」へ去ることになる。
「ウインドウズOS? あ、あったみたいですね、20世紀に、そーいうの。その頃ってOSって有料だったんですか? そんな空気に課金するみたいなことされて、みんなよく黙ってましたね、昔のひとは。ははは」
という時代がいずれ来るであろう。

ということを書いたのが10ヶ月前。もちろん平川くんはこれを読んでいない。
そして今日平川くんの書いた論文を読んで、びっくり。
その中のLinuxについて書いた箇所を採録しよう。

「Linux の発明者である Linus Torvalds は、Linux をどのように成功させたか、次のような興味深い見解を述べている。

『簡単なことです。僕はたったひとりの人間でしかありませんから、何から何まで自分でやるのは不可能です。助けが必要だし、それにはほかの分野では自分よりずっとすぐれた人がいるという事実を認めることも必要です。』

リナス自身が述べているように、Linux の革命性はOSそのものの出来映え以上に、そのプログラム作成のプロセスそのものの中に存在している。そのことの意味をもっとも深く理解し、それをメタフォリカルに表現してみせたのは、fethcmail の作成者であるエリック・レイモンドだろう。彼の書いたエッセー『伽藍とバザール』によって、Linux およびオープンソースを取り巻くものの考え方、行動様式は少数派の運動からひとつの新しいカルチャーになったといってもよいかもしれない。

『はっきり言って、ぼくはリーヌスのいちばん賢い、影響力のあるハッキングというのは、Linux のカーネル構築そのものではないと思う。むしろ Linux 開発モデルの発明だと思う。』(『伽藍とバザール』)

このレイモンドの言葉に、Linux の持つ意味が象徴的に現れている。ここでいう開発モデルにかれは『バザール方式』という言葉を与える。『バザール方式』とは、未完成の状態でもソースコードをリリースしてオープンにし、ユーザも含めてプログラムを修正してゆくやり方を指している。それに対して『伽藍方式』というのはそれまでのFSFや商用ソフトの世界で行われていた中央集権的で閉鎖的な開発方式(伽藍建設型開発モデル)を指している。
『バザール方式』は『プロジェクトの複雑さとコミュニケーションコストは、開発者の二乗で増大する』という『ブルックスの法則』にチャレンジし、『全世界を才能プールとして使用』することが可能であり、安上がりであることを示した。
しかし、『バザール方式』の成功は、単にプログラミングの方法に関する新しい提案にとどまることはなかった。ユーザを巻き込む開発方法は、それまでの商用ソフトウェアの開発方法とまったく異なった新しいビジネスパラダイムを提供したのである。つまり、ここでは生産者(開発者)と商品(プログラム)と買い手(ユーザ)の関係は、従来のように固定した関係ではなく、相互に役割を変えて乗り入れるというダイナミズムを得たわけである。(…)
現在のわたしたちの社会に支配的な交換経済は、財の希少性に対する適応行動というかたちをとる。交換経済では、社会的な地位はモノ(あるいは人)をコントロールできるパワーの大小できまる。それに対して贈与文化とは希少性ではなく、過剰への適応である。贈与文化の支配的なところでは、社会的なステータスはその人が何をコントロールしているかではなく、その人が何をあげてしまうかで決まる。贈与文化は、生存に不可欠な財が欠乏しないような社会で見られる人類学的なモデルなのだ。(…)
レイモンドはオープンソース・ハッカーたちの社会はまさに贈与文化であるという。
『生存にかかわる必需品』つまりディスク領域やネットワーク帯域が深刻に不足しない場合には、ソフトは自由に共有され、ナレッジは自発的に差し出され名誉と交換される。競争的な成功の尺度は仲間内の評判だということである。
『情報』が商品となったときから、交換の経済とは異なったモメントが動き始めたといえるのかもしれない。情報はまさに与えなければ得られることがないように流通する。(…)
Linux あるいは他のフリーソフトウェアが、今後どのようにビジネス社会の中に取り込まれ、位置づけられるのかは予断を許さないが、もはやオープンソースのカルチャーというものを抜きにしてビジネスを考えることは避けては通れないということは確実であるように思われる。」

平川くんのオリジナルテクストはもっと長くて、面白い部分(ポトラッチに言及した部分とか)もたくさんあるのだが、Linux についての核心的な記述だけを引用させてもらった。
それにしても、でしょ?
私たちはほとんど「同じこと」を書いている。
まあ、Linux について肯定的に書けば、たぶん誰でもだいたい同じようなことを書くことになるのかも知れないけれど、それを「交換」という「人類学的」な営為に結びつけて解釈して、これは「カオス」ではなく、「新しいタイプのノモス」なのだ、という結論に強引に引っぱってきて、「ま、そーゆーわけだから。がたがたいわんと、私に資本を回しなさい。悪いよーにはせんから」いうところにオトす、という戦略の組み立てにおいて、私と平川くんは双生児的である。
もちろん私も平川くんも「私に資本を回して」もらって、それを退蔵する気はさらさらない。
それでは、なぜ私たちが資本主義社会において、ビジネスでの成功をめざしているかというと(申し遅れましたが、私もまた資本主義市場において「教育ビジネス」「学術ビジネス」での成功を追求しておるのです)、私と平川くんは、「手に入れた資本」を一瞬も「寝かしておかない」ことに関してはほとんど「天才」だからである。

「江戸っ子だってね」
「おうよ。宵越しの銭ぁもたねえぜ」

私たちは何かを退蔵するとか、秘匿するとか、私物化する、とかいうことができない「江戸っ子」なのである。
「クロマニヨン」性格が濃厚な人間類型と言ってもよい。
たしかに、私たちは「お金持ち」になりたいと思っている。
けれどもそれは先に書いたように「メルセデスやプール付きの家」が欲しいからではない。
お金もちになったら、お金をどんどん人にあげることができるからである。
他の人がお金を持っている場合よりも、私たちがお金を持っている方が、貨幣の循環を加速するであろうことについて、私たちは断固たる自信がある。もう、これは、確信を込めて断言できる。
私たちは「ひとにものをあげる」のが異様に好きな人たちだからである。
平川くんがビジネスで成功して、次の段階にスケールアップするときに選んだ仕事は「お金が欲しい起業家に、お金が余っている投資家からお金を調達する」ビジネス(「インキュベーション・ビジネス」というのだよ)であった。
私は身を削って得た学術情報をインターネットで無償で公開することと、骨をきしませて習得した武道の技法を無償で伝授することに手持ちのエネルギーと時間の過半を割いている。
それによって、「名誉や権力や婦人の愛」(@フロイト)を得たいからではない。(ちょっとは得てもよいが)
そうせずにはいられない、やめられないとまらない「エビセン」体質のゆえなのである。
だから Linux の話を聴くと私たちは「お、フィンランドにもいるのね。エビセン男が」というような好意的なリアクションをしてしまうのである。
財やサービスや情報や権力が「くるくる」動き回るのを見るのが、「エビセン男」たちは好きで好きでたまらないのである。
理由は分からない。