ウチダは明日から「極楽スキーの会」で野沢温泉です。
寝てる時間と温泉にはいっている時間と宴会をしている時間のあいまには、なんとスキーもできるという願ったりかなったりの「極楽リゾート」である。
ここで一年分の疲れを流して、「蘇る勤労」となって3月17日以降の非人間的スケジュールに挑むのである。(あ、考えただけで頭痛が・・・)
出発前に、なんとかレヴィナス論の第三章を仕上げたいものである。
第一章「レヴィナスと出会いの経験」はすでに書き上がった。(ショート・ヴァージョンが『ユダヤ・イスラエル文化研究』の次号に載ります。)
第二章「非-観想的現象学」(別名、「寝ながら学べるフッサール」)は昨日脱稿。
第三章「愛の現象学」は『全体性と無限』のエロス論をフロイトをてがかりに読解しようじゃないのというなかなか野心的な企画である。返す刀でリュス・イリガライへの積年の怨みもこの機会に晴らしておきたい。(私はあまりひとを憎まないたちであるが、イリガライだけは許せんのじゃ。あ、名前を口にしただけで怒りで身体が震えてきた。)
第四章はたぶんハイデガー論になるはずである。しかし、フェミニズム批判であまり紙数をつかってしまうと、「サルにも分かるハイデガー」の頁数がなくなってしまう。
いずれにせよ、こんな調子で好き放題書いていたら、本がめちゃくちゃ厚くなって誰も買ってくれなくなってしまう。(600頁、五千円の『高校生でも分かるレヴィナス』なんて本、誰が買うだろう)
しかし、まだできていない段階で言うのもなんであるが、これは「よい本」である。
なんといっても「分かりやすい」。
私は「自分に理解できないこと」は絶対に書かない、ということを原則にしている。
しかるに、この世界には「私に理解できないこと」があまりに多い。
したがって、私は書きながら、「理解できないこと」をなんとか理解しようと努めている。
それは哲学上の概念を、私がふだん使っている言葉に何とか置き換えるということである。もちろん逐語的に置き換えることは不可能である。
ではどうするか。
「たとえ話」をつくるのである。
フッサールは「間主観性」を説明するときに、「世界中の人がペストで死に絶えて私ひとりが地上に残った場合でも、私は自分がいま見ている物体の『私には見えない側』を見ている他者の視線を想像的に経験している」という印象的な「たとえ」を挙げている。
世界に一人だけ残った「超越論的自我」がじっとみつめる「サイコロ」。
彼には最大「サイコロ」の三面しか見えない。
しかし、彼は残りの「見えない三面」をありありと「それを見ている他者(ってもうひとりもいないんだよ)の視点」に自己移入することを通じて想起することができる。
というか、「それを見ている他者(いないのね、しつこいけど)」が「いる」と想定しないと、「サイコロの三面」らしきものは「サイコロの三面らしきもの」としてさえ認識不可能なのでらう。
つまり、「ひとりでも共同存在」なんだよ、人間は。
これほど巧みに「間主観性」の構造を伝えてくれる比喩はなかなか思いつかない。
というわけでウチダは毎日毎日「たとえ」ばかり考えて暮らしている。
今回のベストたとえばなしは「村上春樹の目には『Fの鉛筆』が『セーラー服を着た女子高校生』に見える」という『村上朝日堂』の一節を使って「ノエマ-ノエシス」構造を説明した箇所である。これはわれながら分かりやすかった。
いま考えているのは、「超越論的自我」の内部に「超領地性」が生成して、その「女性的なもの」の「優しさ」の様態において他者が顕現する、という『全体性と無限』の「すまい論」をどうやって「高校生にも分かるように」書き換えるかという難問。
エゴイスト的東京の真ん中に「真空」の皇居があって、そこに「女性的なるもの」としての天皇が降臨する、というような「たとえ」だとなんだか三島由紀夫みたいだしなあ。
どうしたもんか。
(2001-03-11 00:00)