3月10日

2001-03-10 samedi

入籍事件(ってこれは事件か?)が岡田山に静かな波紋を呼んでいるワルモノ先生に、同僚たち(主として「極楽」系)からいろいろと「つっこみ」が入っており、それにワルモノ先生がお答えをしている。
さて、その中にVSMSについての言及があったので、みんなでいっしょに考えてみよう。
ワルモノ先生曰く。

「そして,おそろいことだ。いつのまにか「バツイチ連合」が「独居老人孤独死」仲間の会にまで発展していたとは。ボクの場合,今後も「バツ」がふえる可能性は高いのだけど,でも「紙」のうえにバツがつくことと,ペアをつくることとはまったく別ものだと思っていたので。...って,でもそんなことは「極楽」先生も同じなのに(たぶん)。じゃあ,いったい何が? 問題は死に方なのか? 人生やっぱり孤独死でなければだめなのか? 例えばペアの相手が先に死んで,それからひっそり会則にしたがって「孤独死」する場合はどうなるのか(心千々に乱れる)?」

細心にして剛胆なワルモノ先生も、極楽系同僚たち(極楽先生ことウチダと「粘り目笑い」のジャン森先生)のリアクションにはいささか意外の感をもたれたようである。
そもそも入籍問題については、われらバツイチ諸君はいろいろろトラウマもあり、若い人たちのように
「戸籍なんてカンケーねっすよ。愛があれば、ね、トモコちゃん」
のような軽やかなリアクションができないのであり、いきおい眉根に小さくシワよせて、
「ま、なんだわな。戸籍というのは、化石とは、ちょっと違うわな」
というような歯切れの悪い対応になってしまうのである。
私はいちど結婚して入籍したことがあるが、そのときびっくりしたのは、入籍と同時に、実に多くの、おもいもかけぬ人々から暖かい「認知」のお言葉が得られたことである。
私が「おお、私も市民として認知されたのだ」と思ったのは、実にこのときである。
(それまでの25年間、私は自分のことを一度も「市民」だと思ったことがなかったのである。それもいささか問題ではあるが)
もちろん、世の中というのは「ただ」で人に温かい言葉をかけてくれるほど気のよいシステムではない。当然、それには「裏」がある。
「認知」の代償として、私は年金を払ったり、確定申告をしたり、選挙に行ったり、免許をとったり、それまでまるっとネグレクトしていたさまざまの市民的義務を果たし、「システム」のさまざまなマトリックスに喜々として「自己登録」するような「小市民」と化したのである。
まあ、これは私個人の特殊な例であって、ワルモノ先生は筋金入りのレーニン主義者であるから、その程度のことで市民化するほどヤワではないだろう。
しかし、まわりからすると、「ただ同居している」ということと「入籍する」ということは意味がかなりちがってくることはどなたの場合でも変わりはない。
単に「同居している人間たち」は「ペア」としては認知されない。
というか「ペアとして認知しない」ほうが礼儀にかなっている場合がしばしばある。
彼らは「ふたりの独立した個人」である。
だから、
「あ、ヤマダくんいる? いないの? あのさ、ヤマダくん、明日ヒマかな?」
みたいな問い合わせに同居人のトモコさんが
「あたしはヤマダの番人じゃないわよ」
と冷然と答えても、失礼なのは電話をかけたタナカの方であって、トモコさんの対応はまったく正しい。
しかし、入籍するとそうはいかない。
「お、ヤマダ、『死霊のはらわた』の無修正版が手に入ったんでさ、明日うちで上映会やるから来ない」
みたいなオッファーのさいごに
「トモコさんもつれといでよ」
を付け加えないと、バカ映画好きのヤマダくんもちょっと快諾しかねるのである。
このあたりのやりとりはきわめてビミョーなものであって、結婚したことのない方にはちょっとむずかしかったかな。
ともあれ、「ふたりの個人」である場合と「ひとくみのペア」である場合は、外側からするアプローチに(とくに「遊び」系のオッファーに)わずかにデリケートな違いが生じるのである。
ワルモノ先生に対する極楽系教員の「粘り目」は、そのあたりの機微を伝えていたように私には思われた。

ただ「孤独死」については誤解があるといけないので、ここで説明を少し付け加えさせて頂く。
「孤独死」というのは、けっして「ひっそりとした閉じられた死」を意味するのではない。むしろ、「万人に解放されている」ような種類の死である、と私は考えている。
「孤独死」の逆のものをお考えいただきたい。
「情死」がそうだね。
「情死」というのは、その死の意味は当事者二人以外に「ぜったいわかんないかんね」的に閉ざされている。それに閉ざしたままにしてあげるのが礼儀正しい死者へのかかわりであるような「閉じられた死」である。
あとは、病院で死のうと、畳の上で往生しようと、アナコンダに呑み込まれようと、それらの死は程度の差はあれ他者による解釈に「開放された死」である。(「なんで、タナカはアナコンダの檻になんかパンツ一丁で飛び込んだんだろね?」「幼児退行願望じゃねーの」)
その「開放された死」のなかで、もっとも開放度の高いものを私は「孤独死」と名付けようと思うのである。
どうして、一人で死ぬのが開放的だか分からない?
ではご説明しよう。
「家族の中で死ぬ」というのは、いまの社会では、その死を引き受ける「喪の作業」の主体が家族に限定されているということを意味している。
とりあえず、家族以外の人間は、その死の意味について、個人的な「意味づけ」をする義務からは解放されている。解放されているとも言えるし、そこから排除されているとも言える。
私は「喪の作業」を家族の数名とか、親しい友人とかに限定することをあまりよいことだと思っていない。
田口ランディの『アンテナ』と『コンセント』を読むと、知的、情緒的リソースが限られた人間たちにとって、親しいものの死の「喪の作業」がどれほどきつい心理的負担になるか、よく分かる。
他者の死の「引き受け」という作業は、できれば、なるべく多くの人間で「分担する」方がよいのではないか、というのが私が田口ランディを読んで得た結論である。
私はできれば

「ウチダも死んだね」
「まったく最後まで、はた迷惑な野郎だったな」
「ま、死んだから遠慮なく言わせてもらうけどさ」

というような会話を死んだあとにできるだけたくさんの人にしてもらいたい。
だから「孤独死友の会」という表現は背理的なものではないのである。
「なんで、孤独に死ぬ人間にうじゃうじゃ友だちが要るんだよ」
とお怒りになる方もあるやもしれぬ。
それはいささか短見といわねばならぬ。
「孤独死」こそは「開かれた死」なのである。
なにしろ、友の会の諸君(私が死ぬ頃には数百名には達していると予測されるが)は、その全員が一人一人、「喪主」の気分で仲間の一人の死を全身で引き受けるのである。
会員は、死んだ会員の一人一人について「喪の作業」を引き受ける。その代償として、その孤独な生と死の意味は、当人以外の全会員によって「語り継がれる」のである。
それが孤独に死ぬことの唯一の代償である。
ワルモノ先生がおそらく誤解されているのは、孤独死が「ひっそりとした死」だと思われている点である。
それは違う。
孤独死は喪主がぞろぞろいる「にぎやかな死」なのである。
ウチダのような宴会好きが「ひっそりとした死」を準備するために会なんか作るわけないではありませんか。