3月9日

2001-03-09 vendredi

福岡地検の次席検事が福岡高裁の判事に捜査情報を漏洩した件で守秘義務違反容疑で告発された事件は、嫌疑不十分で不起訴となった。
法務省はこの行為が「検察と裁判所の癒着」についての疑惑や不安をかきたてた点を重く見て、次席検事を停職六ヶ月の懲戒処分とした。検事は退職する予定である。(退職金は七割だけもらって、三割は返すそうである。この数字の算出根拠は何だろう?「泥棒にも三分の理」かな?)
まったく訳の分からない事件である。
いちばん分からないのは次席検事が情報を漏洩した「動機」である。
これについて最高検は

(1)公になれば、センセーショナルに報道され、裁判所や司法界全体のスキャンダルになる
(2)被害の拡大を防止するために、専門家である判事の協力が得られるはずと次席検事が「考えていた」と「認定」した。

本当だとしても、不思議な動機である。
だって、その動機に基づいて捜査情報を漏洩した結果

(1)事件はいやがうえにも公になり、センセーショナルに報道され、裁判所や司法界全体のスキャンダルになり

かててくわえて

(2)専門家である判事は捜査妨害をした

のであるから。
おそらく彼の推論は次のようなプロセスですすんだものと考えられる。
彼はちょうどたき火が家に燃え移りはじめた現場に通りかかった人のようなものである。
彼はこう考えた。

「わ、なんだか火事になりそうだな。どうしよう・・・燃焼の三要素って何だっけ。えーと、酸素と熱と燃えるものだ。じゃ、『燃えるもの』をなくしてしまえば、火事にはならないんだ。えーと、『燃えるもの』を手早くなくすいちばん簡単な方法って何だろう・・・あ、燃やしちゃえばいいんだ。おれってかしこいな。ぼわっと。ひえー。火事だあ」

この次席検事はいったいどうしてこんなにバカなのであろう。
しかし、これは現代日本の「エリート」たちの知性のレヴェルを測る上で興味深い実例であるように思われる。この機会に彼の思考のあとを順にたどってみよう。
彼は、司法官が犯罪にかかわっているということが明るみに出ると、業界全体の威信と信頼が低下する、と考えた。
この考え方は間違っていない。
たしかに、ある人が犯罪に加担したことがばれると、その人の属している業界全体の信用が低下し、ひいては社会全体に悪影響が及ぶのは事実である。

税務署員が脱税していては、国民の納税意欲が低下する。
政治家が収賄をしていては、政治不信に歯止めがきかない。
母親が子どもを虐待すれば、「母親」に対する信頼が崩れる。
肉まん屋が、夜な夜な人を殺して「人肉饅頭」を売っていたと知れたら、肉まん業界は大きな打撃を蒙るであろう。

あらゆる犯罪者は、その人が属している業界全体の威信を低下させ、ひいては社会全体に不安と不信を蔓延させる。
これは揺るぎなき真理である。
では、この次席検事の考えたとおり、社会的な悪影響が心配だから、あらゆる犯罪は隠蔽した方がよいのであろうか。
たしかにそう言われれば、そうかもしれない。
どのようなものであれ、犯罪の事実が公になったおかげで「社会的によい影響」がある、ということは考えられない。
現に、あらゆる凶悪犯罪は「模倣犯」というものをぞろぞろ生み出す。
アメリカでの「高校での銃乱射事件」とか「シリアル・キラー」とかは、もうほとんど「いかに、みごとに『本歌取り』するか」というあたりにまで関心がシフトしている。
うちの社会には犯罪なんかない、と全国民が信じてくれる、ということは体制の安定にとってはたいへんに好ましいことであろう。(だからたぶん北朝鮮の新聞には犯罪記事というのは非常に少ないのではないだろうか。読んだことないから知らないけど)
司法官たちは体制の安定、良風美俗の維持こそを天職としているわけであるから、「日本には犯罪がない」と国民みんなが思ってくれると、たいへんにありがたい。
朝、新聞をひらいたら、犯罪の記事がひとつもなかった、というのが司法官たちの夢であろう。
おそらくかの次席検事はそのような社会の実現にいささか性急だったのであろう。
気持は分かるけどね。
しかし、それが無理だということは彼にだって分かる。
司法試験に受かるくらいだから、そこまでバカではない。
彼にも分かるのは、「犯罪なき社会」では検事は飯の食い上げだということである。
だって、犯罪のない社会に、司法官はまったく不要のものだからだ。
新聞に犯罪記事がまったく載らなくなったら、一年もしないうちに納税者たちは「だったら、警察も検察も裁判所も、リストラしましょ。あってもムダだし」ということになるだろう。
病気のない世界に医者が要らないように。
これは困った。
しかたがないので、検事はさらに考えた。
そうだ、「犯罪があってはならない業界」と「犯罪があってもいい業界」に社会を二分しておくというのはどうだろう。
つねに適量の犯罪の供給があって、司法官の仕事には事欠かないし、ある程度体制の安定、良風美俗の護持もかなうのではないか
悪魔のごとき狡知である。
というわけでかの次席検事は社会二分法を採用することにしたのである。
そして、彼は「その威信が低下すると社会的に悪影響がもっとも多い業界」、つまり「犯罪があってはならないので、ないことにする集団」として何が適当であるか熟慮したのである。
そしてその結果、彼が選んだのは「自分の業界」だったのである。
素晴らしい推論である。
ここまでの彼の判断には少しの曇りもない。
たしかに道徳的にはいささか問題であるが、論理的には間違っていない。
しかし、彼はあることを勘定に入れ忘れた。
それはほかのすべてのことはたくみに隠蔽したにもかかわらず、彼の判断を動機づけたのが彼の利己的な欲望であり、その欲望だけは彼以外の全員に「まる見え」だ、ということである。
私がラカンから学んだことの一つは、ひとがものを隠すときに絶対隠せないものが一つだけある、それは「隠したい」という欲望である、ということである。
次席検事は実にたくみに推論した。
にもかかわらず彼が失敗したのは、彼のたくみな推論の全体が「他人の犠牲の上に、自分たちだけが不当な利益を得る」という素朴な欲望の上に構築されていることを、彼自身が「見落として」いたからである。
ひとはあらゆるものを勘定に入れる。「勘定している自分の欲望」以外は。
私はこの次席検事が犯罪的な人間だとは思わない。
でも頭が悪い人間だとは思う。
ほとんど「犯罪的に」。