3月6日

2001-03-06 mardi

後期入試が終わった。
うちの学科の後期入試定員20名のところに160名の志願者というのは、現在の私学女子大の水準から言うと、涙が出るほどありがたい数である。
近隣の女子大はつぎつぎと壊滅状態になっている。
すでに今年の入試においては近隣のK大学のある学科で、一般入試の志願者が2名(判定教授会では「やけくそで」そのうちの1人を落としたそうである。)S大学のある学部では定員80名のところに志願者16名といった、ほとんどSF的な事態が出来している。
こういう大学は、これからさき、いったいどうするのであろう。
ハヤナギ先生によると、富山にあるS学園大学短大は、廃校になり、ドイツ語の専任教員は系列大学の「事務員兼英語講師」になられるそうである。
大学教員たちが大挙して路頭にまよう時代がもう指呼の間に迫っている。
かつては高学歴失職者たちの受け皿であった予備校は大学より先にいちはやく壊滅状態にあり、翻訳の仕事も、出版界自体が壊滅的状態であるので、生活を支えるには遠く及ばない。
いったい、高学歴失職者たちのこれから先はどうなるのであろう。
「国に帰って家業を継げる」ひとはまだラッキーで、国がないひとはどうすればいいのだろう。

大学をやめた大学教師というのは、ほんとうに「つぶしがきかない」。
「先生、先生」と20代から呼ばれつけてきているので、ひとに頭を下げることができない。勤務考課というものをされた経験がないので、自分がいまどういう仕事をしていて、それが何の役に立つのかを適切な言葉で伝えることができない。何年間も一本の論文も書かなくてもどんどん給料が上がってくるので、「マーケット」や「自己責任」という概念が辞書にない。
長年かけてしっかりとみずからを「つかいものにならない」人間へと造形してきたわけであるから、いまさらどうしようもない。
もちろん、いまとりあえず経営は安泰、という大学に奉職している教員たちだって、別に、路頭にまよう教師たちより研究者教育者として優秀だというわけではない。単に、「たまたま」経営基盤のしっかりした大学からお呼びがかかった、というだけの「時の運」があったにすぎない。
それが、大学冬の時代に遭遇するや、一方は路頭に迷い、一方は「三日やったらやめられない」教師商売をのんきに続けている。
クレヴァーな大学経営者に恵まれたか恵まれなかったかが運の分かれ目だが、仕事を探しているときには「これからつとめる大学は理事会に経営マインドのしっかりした人がいるだろうか」なんてことは誰も考えない。
不条理である。
ひどい話だが、世の中はそういうものである。
本学はかろうじて「勝ち組」に「指一本」かかっている、と以前書いたけれど、ポジティヴ・フィードバックの恐ろしさ、わずか1ヶ月で「腕一本」まで事態は進行した。このまま大学改革とパブリシティ活動と学生サービスの充実のための集中的な努力を怠らなければ、来年は「上半身」くらいが「勝ち組」ボートに乗り込めるかもしれない。
いまが正念場である。
ここで、「わはは、勝った勝った。もう安心して手抜きでいこう」というようなだらけた対応をした日には、淘汰の「第二の波」がきたときにはひとたまりもないであろう。
大学が生き残るか沈むかはただちに私たちの明日の「ごはん」の問題に直結する。
私は美味しいごはんを明日もたべたい。
来年も再来年も「ほそかわ」で「ふぐ」を食べたい。
そのためにはとにかく「仕事」をしなければ。
それは大学の教師にとってはとても単純な話だ。
「お金を払ってでも聴きたい講義」をすると言うことに尽きる。
その査定は自分自身でできる。

「私が学生だったとして、私のいましている講義に金が払えるか?」

そう、自問し続けるのである。
えー。ずいぶん厳しい自問ですね、ははは、などと笑ってもらっては困る。
そのような問いかけは「ふつうの商売」をしているひとにとっては、「あったりまえ」の問いである。

「自分が消費者だったとして、この商品を買うだろうか?」

ふつうの商売人はみんなそう考えて、商品の質を吟味している。
自分が買いたくないものを誰が買うだろうか。
自分が愛情を持っていないものに誰が愛情を持つだろう。
自分が誇れないものを誰が誇るだろう。
大学教育だっておんなじである。
私がいま学生だったとして、私のやっているこの講義には、何をおいても駆けつけます、と断言できる教師がうちの大学に何人いるだろうか。
うー。私もそう自問すると、胸がきりきり痛む。
きりきり。いててて。