3月4日

2001-03-04 dimanche

お雛祭りなので、「るんの卒業祝い」と『ためらいの倫理学』の出版記念内祝いをかねて並木屋にお寿司を食べに行く。
西北の並木屋はグルメの山本画伯ご推奨のお寿司やさんであるので、たいへんに美味しく、かつお値段もリーズナブル、お寿司を握るおじさんたちもフレンドリーで、よいお店である。
私はほとんど外食をしない。自分で作るご飯をぱくぱく食べているといちばん幸せ、という安上がりな男である。(昨日は「マーボー麺」、今日は「シーフードカレー」。どちらも美味しかった。)
そのわりにはこのところ美食が続く。
先週は三宮の鴻華園でベトナム料理を飽食。明日は「ほそかわ」で「ふぐ」である。
(そういえば、すべて山本画伯のご紹介のお店だ。)
なんで、そんなにいきなり外食が続くかというと、るんちゃんがもうすぐいなくなるので、最後くらい美味しいものをたくさん食べさせてあげようという親心なのである。
そのあとも今週末は大学の集まりでポートピアホテルでご会食だし、そのあとは野沢温泉で山海の珍味、謝恩会は帝国ホテルでご会食、月末は出版記念パーティの本番である。なんだか一年分の外食機会がこの三月に集中しちゃったみたいである。
まあ、いいでしょう。
論文を毎日書いているせいで、どんどん痩せてきているから、ぱくぱく食べても大丈夫である。

今日も一日レヴィナス論を書いていた。
この3週間ほど「レヴィナスとフッサール」という章を書いている。
レヴィナスはフッサールのどこに惚れ込んで、どこが嫌いになったか、という話である。
男女の出会いと別れと同じで、「要するに、別れちゃったわけでしょ」みたいな括り方をしたのではあんまり面白くない。
すごくいいところまでいったんだけど、「ちょっとここが、ね」という微妙な消息をなんとか自分の言葉で書きたい。
でもそうすると、どうしても「現象学とはどういう学知か」ということをはじめから書かないといけない。
「現象学とはどういう学知か」ということを、誰にでも分かるように書く、ということになると、これは一仕事である。
なにしろ、私自身が現象学のことをよく知らないんだから。
というわけで、『イデーン』と『厳密な学としての哲学』と『デカルト的省察』と『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』をもう一度はじめから読み直して、それを自分の言葉に書き換えるということを朝から晩までやっている。
それで少なくともひとつだけ分かったことがある。
それは、偉大な哲学者は「話がくどい」ということである。
たぶん、それは「お願いだから、分かって」という切なる願いのせいで、繰り返しが多くなってしまうからだろうと思う。
偉大な哲学者は「大事なことは一回しか言わないぜ」というような底意地の悪いことは絶対にしない。
ほんとうに伝えたいことは手を変え品を変え何度も何度も書くので、どうしても心配性のお父さんのように「話がくどく」なってしまうのである。
伝えたいことはたいていオリジナルなことであるので、出来合いの言葉ではうまく伝えられない。だから、特殊な術語を発明して、それを読者の「私家版語彙」に登録してもらわないといけない。特殊な術語は「他の言い方では言えないこと」を言うためにあるので、その含意が読者の身体になじむまで、結局は時間をかけてしつこくしつこく書くしかないのだ。
というわけで、私はすっかりフッサール好きになってしまった。
話はくどいが、よい人である。
でもレヴィナス老師はフッサールにはちょっとご不満だったのである。
むずかしいものである。
フッサールが終わったら、次はハイデガーである。
この人も「くどさ」に関しては人後に落ちない。
来週からは『存在と時間』を私の言葉に言い換えるというお仕事である。
おそらく、一月くらいあとには、「ハイデガーも話はくどいがよい人である」というようなことを書いているのであろう。
私は誰であれ、自分の言いたいことを伝えるために、自分の言語の限界を試みる知性には深い敬意を抱くのである。
こんどの原稿のおかげで、フッサール現象学とハイデガー存在論を「ウチダ語訳」にするという課題を経験できたのは喜ばしいことである。
おそらく本になるときは、いまの原稿の三分の二(「サルにも分かる現象学」「寝ながら学べる存在論」)は棄てることになるだろうけれど、それはそれでいいのである。
おかげで、これからは、「ねえ、間接的現前と根源的現前って、どうちがうんですか?」とか「ノエマとノエシスって、対象と意識のことですよね?」とかいうことを学生さんにいきなり訊かれても、「よくぞ訊いてくれました。あのね、ここに『マクドナルドのてりやきバーガー』があるとするでしょ」というふうにご説明できる。


鈴木晶先生のホームページがリニューアルされた。
さっそく毎日おじゃましているが、今日は映画の話が書いてあった。
面白かったのでちょっと再録しますね。

「テレビで『フィフス・エレメント』を見始めたが、最初の 10 分間でいやな予感がしてきたので(衣裳ジャン・ポール・ゴルチエというタイトルバックをみたとき、すでに悪い予感がした)、時間の無駄になるに違いないと思って、切ってしまった。きっとつまらない映画だろう。『ほとんど見ていないんだから、おまえに判定する権利はない』といわれれば、その通りだが、そんなことを言い出したら、何から何まで観なくてはならない。『すべてを観なければ、語ってはいけない』ということになってしまう。でも、人生は短いのだ。
といいつつ、先日、深夜にやっていた『素顔のままで』(なんという邦題。原題は『ストリッパー』だ)をタイマー録画して、見始めたら、最初の5分間で、どうしようもない映画だということはわかったのだが、デミ・ムーアの踊りがセクシーだし、グラマーが次々に出てきて半裸で踊るもんだから(ただそれだけの映画なのだ)、ついつい最後近くまで観てしまった。「近く」というのは、タイマーの関係で、なんと最後の 10 分間がとれていなかったのである。だから結末はわからないが、わからなくてもいい映画だった。」

鈴木先生ご賢察のとおり、『フィフスエレメント』は見るだけ時間の無駄である。
(私のように「リュック・ベッソンは幼児退行するであろう」という予言を『レオン』の批評でしちゃった人間見ないわけにはいかないけれど。)
『素顔のままで』(って、ビリー・ジョエルの歌の題?)というのも、ひどい映画だった。
結末が分からなくてもよい映画である。(私も覚えていない。)
同時期に『ショーガール』というこれまたひどい映画があったので、印象が混乱しているけれど、たしかデミ・ムーアは元FBI職員で、離婚の慰謝料が届かないので、生活に困ってストリッパーをしている、というような設定ではなかっただろうか。
その少し前の『ハーフムーンストリート』(題名がちがうかもしれない)はシガニー・ウィーヴァーが元外務省の官僚で、離婚の慰謝料が届かないので、売春婦をしている話だった。
そういうものなのなのだろうか。
FBIとか外務省とかの女性キャリアって、離婚すると、とりあえずストリッパーとかプロスティチュートで糊口をしのぐくらい「まるで平気よ」というくらいに「性意識が解放されているのよ。ふふふ」ということなのであろうか。
それとも、「いいから、早く慰謝料払え。さもないとエックスワイフが殺人事件に巻き込まれたりして、めんどうなことになるぞ」という恫喝なのだろうか。
それとも、「別れた妻に慰謝料を届けないと、いろいろ面白いことがあるみたいだから、滞納してみたら?」という隠されたメッセージをアメリカの離婚夫たちに送っているのだろうか。
なんとなく、最後の可能性がいちばん高いような気がする。

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ハーフムーン・ストリート