松下正己くんから先日の「バカ映画批評」についての書き込みがあった。
「うーむ。
バカ映画批評に関してのお言葉拝見しました。
思い起こせば自分の文章で
『周知のように』(『周知のごとく』ですが)を多用しているのは、私です。」
そういわれて見れば、松下くんの文章には「周知」の語が散見されるようである。
だが、松下くんに反省を促すのはもとより拙論の趣旨ではない。
たしかに、松下くんが「周知のごとく」と書くあとには、「松下くん以外たぶん誰も知らない映画史的情報」が続くのは事実である。
だが、これは「テクストの宛先を『選ばれた一部の読者』に限定する」ための言葉ではない。
むしろ、「テクストの宛先なんか、ないぞ」という松下くんの決然とした社会的態度(と言うより「反社会的態度」だな)を表現している言葉である、と私は思う。
ということは、松下くんはいわば「読者全員にあてて」喧嘩を売っているのである。
松下くんの一見「孤独」と見える知的営為の根源的な「開放性」をこれほど鮮明に語る言葉はないであろう。
私も読者限定的な修辞は極力避けるようにしている。
ジョン・ウォーターズ先生に倣って、私は「万国のボンクラ諸君」を読者に想定して書いている。
だが、不幸なことに、「私はボンクラだ」と思っている読者はあまりいない。(「ボンクラ」たちは、自分が「ボンクラ」であるという正確な自己認識を獲得することがなかなかできない。だからこそ「ボンクラ」なのであるが。)
それゆえ、一見「他者指向的」と見える私のテクストは、実は絶望的な自閉を宿命づけられているのである。
しかし、ご心配には及ばない。
なぜなら、「私は万国のボンクラ諸君宛てに書いている」という命題は、それ自体が「テクストの読解の仕方」についてのメッセージ、つまり、情報理論で言うところの「メタ・メッセージ」だからである。
「メタ・メッセージ」である以上、それは(ボンクラ、非ボンクラを含む)読み手全員に読解可能なものとして開かれている。
ややこしいことを書いてすまない。
ちょっと説明するね。
「クレタ島人は嘘つきだ」というクレタ島人の話をご存じだろうか。
「クレタ島人のパラドクス」と呼ばれるものである。
「クレタ島人は嘘つきだ」のが本当だとすれば、そう言っている当のクレタ島人も嘘をついていることになるから、「クレタ島人は嘘つかない」ことになる。
しかるに、このクレタ島人が嘘をついていないということになると、「クレタ島人は嘘つき」だということになる。
ああ、ややこしい。
しかし、バートランド・ラッセルというひとが「階型理論」というものを持ち出してきて、この歴史的パラドクスを解決してくれた。
それは、「メッセージの読み方」についてのメッセージは「メタ・メッセージ」であり、水準が違うので、「メッセージ」の内容に拘束されない、というものである。
「クレタ島人は嘘つき」というのは「クレタ島人が口にする言葉の解釈にかかわる規則」であるから、「メタ・メッセージ」に分類される、それは「クレタ島人が口にする言葉」の内容に拘束されない。
つまり、「クレタ島人が嘘つき」だというのは(クレタ島人が口にした場合でさえ)「ほんとうのこと」なのである。
だから、誰かが「私の言葉を信じるな」と言ったときには、「その言葉」だけは信じてもよいのである。
「私がいま語りつつあること」の「読み方」を読者に対して指定するメッセージは「メタ・メッセージ」であるので、経験的には、それは素直に信じてよいのである。
つまり、端から端まですべて「真実」であるようなテクストがあるとすれば、それは「書かれつつある当のそのテクストの読み方を指定するようなテクスト」である。
なぜ私がかくも執拗に私の書くテクストの「読み方」について(その語法について、その宛先について、それが含む「真実含有量」について)書くのか、その理由がこれでお分かり頂けたであろう。
それは私が「根が正直者」だからなのである。
そして、松下くんが「自己言及の装置」としての映画にこだわるのも、私とまったく同じ理由によるのである。
意外なことだが、松下くんと私は、「根っからの正直もの」なのである。
実に意外である。
というところまで書いたら『ためらいの倫理学』が届いた。
おお、なんと美しい本なのであろう。
ぱらぱらとめくっているうちに、すっかり読みふけってしまった。
まるで『ヘルプ』におけるジョン・レノンのようである。(え、このギャグ知らない? うーむ。こまったね。)
ところがびっくり、この本にはそこらじゅうに「周知のように」が出てくるのである。
まったく人のことは言えない。
最後の「ためらいの倫理学」というタイトルロール論文などいきなり「周知」から始まるのである。
「周知のことであるために、誰も問題にしないことがある。例えば、『異邦人』の刊行とカミュのレジスタンス参加がほぼ同時期だとういことのその一つである。」
これはいかん。
『異邦人』の刊行とカミュのレジスタンス参加がほぼ同時期であることを熟知している日本人読者がいったい何人いるのであろう。(これは「カミュ研究会」というところで口頭発表した原稿から起こした論文だから、その場では「周知」だったんですけどね)
これでは、このままゴミ箱に投げ捨てられても文句は言えない。さいわい、この論文はいちばん最後なので、読み出していきなり投げ捨てられるリスクは回避できたわけである。
ほっ。
(2001-03-03 00:00)