3月1日

2001-03-01 jeudi

小林先生の「超多忙研究日記」(って私が勝手に命名しているので、ご本人にとってはこれは「ふつうの忙しさ」なんでしょうけど)を読んでいたら、面白いことが書いてあったので、転載させて頂きます。

「ウチの大学に限らないことであるし、何も若い世代だけではないだろうが、漢字の読み書きができない。
ひどいもんだ。
で、参考のために「高校入試」に頻出する漢字の問題集というのを見てみた。
難易度よりもビックリしたことがある。
例文の「質」である。
いくつか挙げてみる。

結婚のジョウケンは優しくてお金持ちであればいいわ。
失恋したらジョウチョが不安定になった。
身勝手なことをしているとクラスのなかでコリツするよ。
彼女が僕にビショウした。
二人はついに恋人センゲンをした。
右手に残る彼の手のカンショクは忘れないわ。
彼女のヨウシならモデルにもなれる。

などなど。
ぼくは別に好んで「高校入試色道篇」を選んでいるのではない。
見開きの頁をランダムに開ければ必ずこうした例文が出ているのだ。
それでいて、「昔の教師はイゲンがあった」とか「あそこの炭坑はもうヘイサされた」とか「親は教育を受けさせるギムがある」といったアナクロが例文も混ざっている。
漢字の問題集を一冊見ただけで、なんだか今の中学生の置かれている状況がわかってしまった気がする。
教師だよ、やっぱり。
こんな例文しか作ることのできない教師の品性の低さが、勉強というなんでもない作業を遠い遠いものにしてしまっているのだよ。」

私は小林先生の着眼点は鋭いと思う。
私たちの「意見」というものは、「個人的な思い」という内的で未定型的なものがまずあって、それが「それを表現するに相応しい言葉」を身に纏って表出される、というかたちをとるわけではない。
「コミュニケーションの現場でとりあえずやりとりされている言葉」を適当に順列組み合わせして話してみて、自分が口にした言葉に「あまり違和感がない」場合に、事後的に「あ、私はこういうことを考えていたのか」というふうに承認する、というしかたで、私たちは「自分の意見」というものを構成してゆく。
「売り言葉に買い言葉」とはよく言ったもので、「言葉の市場」においては「売っている言葉」を「買う」しかない。
であるから、この「高校入試漢字問題集」のようなものを毎日読んでいると、その人の言語中枢の中にこれらの例文が「ストックフレーズ」として堆積してゆくことになる。
そして、「売り言葉を買う」ほかないような、せわしないやりとりの場において、私たちの口を不意について出てくるのは、この慣れ親しんだ「ストックフレーズ」なのである。

「結婚のジョウケンは優しくてお金持ちであればいいわ。
失恋したらジョウチョが不安定になった。
身勝手なことをしているとクラスのなかでコリツするよ。」

というような文型を「ストックフレーズ」として刷り込まれる、ということは考えるとたいへんに恐ろしいことである。
何かのはずみに「結婚の条件は?」と訊かれたときに、思わず「優しくてお金持ちであればいいわ」と言ってしまって、そのあと「自分が言ったことに、それほど違和感がない」ので「ああ、これが自分のほんとうの気持なんだ」と納得してしまうのである。
「それほど違和感がない」のは、単に問題集で何回も読んだからにすぎない。
もしこれが

「結婚のジョウケンは、性欲と無知である。
失恋したとたん、相手にサツイを感じた。
身勝手なことをしているうちに、みんなが私をイフするようになった。」

というような文型を毎日読まされていた場合では、その人の世界観はずいぶん違ってくるのではないか。

実は、私は高校1年のときに、「ひとは自分が聞き慣れたストックフレーズだけを使って自己表現する」ということを発見し、さっそく大学ノートに「ウチダ・タツル私家版語彙集」というものを作ったことがある。
そして、そこに、本を読んで見つけた「お、いいな」という箴言をかたっぱしから書き込んで言ったのである。(たしか記念すべき最初の一行は『ツァラトゥストラ』のニーチェの言葉だった。もう覚えてないけど、おそらく「世の中のほとんどの人間はバカである」というような、ニーチェがいかにもいいそうなことだったかに記憶している。というかニーチェって、それしか言ってないんだよね。実際の話)
ニーチェに始まるその私家版語彙集が私の人生観にどれほど深い影響を及ぼしたかは贅言を要すまい。

大学院受験のときに、仏文科の学生は誰でもギュスターブ・ランソンの『フランス文学史』という1300頁もある本の内容を暗記することを強要されるのであるが、私はこれを「一頁にワンフレーズ」、「これで決まりだ」というかんじの決めのフレーズを探し当て、それをノートに記して、暗記したのである。
例えば、ラブレーの項だと

Rabelais n'a qu'un principe: l'homme a le droit, le devoir d'etre le plus homme que possible.
なんていうのが「決め」の一句になる。
(意味は「ラブレーにはただひとつの原則しかない。人間は、可能な限り人間的になる権利と義務がある、ということである」)

ロラン・バルトにめちゃくちゃにけなされたせいで、いまでは顧みるひととてない文学史家ランソン先生はしかしながら、作家の個性をひとことで言い当てるキャッチーなコピーを作ることにかけては掛け値なしの天才であった。(もちろんバルトはランソンの文学史がそうやって「高校受験漢字問題集」的に効率よく機能したせいで、フランス文学の読み方を定型化したことに対して抗議していたのである。)

バルトが出てきたので、そのままバルトのお知恵を拝借することになるが、このような社会的経験の中で無意識的に刷り込まれた基本文型や語彙やイントネーションやアーティキュレーションのことを「ソシオレクト」と呼ぶ。「社会的な方言」ということである。
ソシオレクトは自己表現の「道具」のように見えるが、実は、そうではない。
一度、あるソシオレクトを選んでしまうと、私たちはそこから出ることがむずかしい。
営業マンには「営業マンのソシオレクト」があり、おばさんには「おばさんのソシオレクト」があり、やくざには「やくざのソシオレクト」がある。それは人々の発語の仕方のみならず、身体運用や、服装や、嗜好や、価値観までをも規定している。
それぞれのソシオレクトにはそれにふさわしい話題があり、それをもっては適切に論じることのできない主題がある。
「いまどきの高校生のソシオレクト」は、たしかに「いまどきの高校生」のある種の倦怠感や徒労感を表すにはたいへん適切な語法であるが、例えば、それをもってしては、「現象学的本質直観」について語ることはきわめて困難であると言わねばならない。

「だからよー。ほら、ここにマクドのてりやきバーガーがあるじゃん。でよ、タカナからはそっち側の包み紙しかみえないし、オレは自分の歯形のついたバーガーしかみえねーけどさ。これが『てりやきバーガー』である、ってことはよ、二人ともわかってるわけじゃん。」
「あたりめーだろが。おれが平日半額のチーズバーガーにしとけっていうのに、てりやきバーガーがいいんだって言い張ったのはおめーじゃんか」
「ちげーよ。オレが言ってんのは、てりやきバーガーの包み紙だけしかみえなくてもよ、タナカにはこれが『てりやきバーガー』だって分かるのはどうしてか、ってことだよ」
「バカかおめー。てりやきバーガーの包み紙の中にチーズバーガーが入ってたら、おらあマクドに火いつけるぞ」

これでは、ノエマ-ノエシス構造をタナカ君に理解させるためには「五劫のすりきれ」ほどの時間が必要であろう。