2月23日

2001-02-23 vendredi

村上龍の『アウェーで戦うために』を読む。
私は村上龍の小説は大好きだが、エッセイはそれほど好きではない。なんとなく、「むりして怒っている」感じがするからだ。
村上龍は、心の底から愛国者で、日本を死ぬほど愛し、その未来を身悶えするほど心配しているのだが、そのままでは「根の善良さ」ぶりが丸見えになってしまうので、わざと暴力的な口調で書いている。
その表層の辛辣さを「おお、痛快」と消費している読者もいるのかも知れない。
私はなんとなく、「泣いて馬謖を斬る」というような、愛情を押し隠した暴力性を感じてしまう。(えーと、このホームページはうちの学生さんも読んでいるので、ちょっと解説するね。「泣いて馬謖を斬る」というのは『三国志』の故事。諸葛孔明が、愛する部下の馬謖が自分の命令にそむき戦争に負けたのを罰した話です。「馬謖」は「ばしょく」を読むのだよ。)
とにかく、私は「戦う」という言葉が嫌いである。(意外かもしれませんが)
私が好きなのは「折り合う」という動詞である。
『アウェーで折り合うために』では、なんだか在外大使館の下働きの心得みたいだけど。
その『アウェーで戦うために』にフリーターについて書かれた一文があった。
「長崎通信」で葉柳先生もちょっと書かれていたが、フリーター問題については私も一言ある。(というのはうちのるんちゃんが春から「フリーター」になるからである。というか、もう「なってる」のね。これが。)
まず村上龍のご意見を拝聴しよう。

「フリーターと呼ばれる人たちがいる。フリーターという言葉ができてから、就職しないでアルバイトをしながらチャンスを待つ、という若い人たちはおそらく増えたのだろうと思う。援助交際などもそうだったが、便利な言葉はあっという間に流通し、しっかり定着する。  フリーターという便利な言葉がなかったころは、就職しないでアルバイトすることに後ろめたさがあった。誤解されると困るが、わたしは就職しない人たちを非難しようと思っているわけではない。就職は絶対ではない。チャンスを待つことも選択肢の一つだろう。ただし、それはその人に何か専門的な技術か知識がある場合だ。 『好きなことがみつかるまで、こうやってフリーターをやりながら、チャンスを待つつもりです』 と言うようなフリーターにはきっと専門的な知識や技術がないのだろう。専門的な知識や技術、特に今市場で求められているような金融やコンピュータ関係のプロフェッショナルは数が足りないのでフリーターでいることのほうがむずかしい。  だが、考えるとすぐに分かることだが、二十歳を過ぎて、好きなことが見つからないと学校にも行かず、これといって訓練も受けていない人間に、どういうチャンスが訪れるというのだろうか。そういう人が二十五歳になって、例えば自分の好きなことが医学だったと分かったとき、その時点で勉強を始めても極めて大きいハンディを背負うことになる。  残念ながらほとんどのフリーターに未来はない、というアナウンスがないのはどうしてなのだろうか。」(村上龍、『アウェーで戦うために』、光文社、2001、127-8頁)

私はこの村上の意見におおむね賛成である。
ただ、言葉を言い添えておくと、経験的に言って、職業選択というのは「好きなことをやる」のではなく、「できないこと」「やりたくないこと」を消去していったはてに「残ったことをやる」ものだと私は考えている。
つまり、はたからみて「好きなことをやっている」ように見える人間は、「好きなこと」がはっきりしている人間ではなく、「嫌いなこと」「できないこと」がはっきりしている人間なのである。
自分が何かを「やりたくない」「できない」という場合、自分にそれを納得させるためには、そのような倦厭のあり方、不能の構造をきちんと言語化することが必要だ。
「やりたくないこと」の言語化はむずかしい。(「できないこと」の言語化はもっとむずかしい。)
「だって、たるいじゃんか」とか「きれーなんだよ、きれーなの。そゆの」
とか言っていると一生バカのままで終わってしまう。
自分がなぜ、ある種の社会的活動について、嫌悪や脱力感を感じるか、ということを丁寧に言葉にしてゆく作業は自分の「個性」の輪郭を知るためのほとんど唯一の、きわめて有効な方法である。(「ほとんど唯一の」というのは、もう一つ方法があるからなのであるが、これは「死ぬ前」にならないと分からない。これについては、『アメリカン・ビューティ』の批評にちょっとだけ書いてある。)
ひとは「好きなもの」について語るときよりも、「嫌いなもの」について語るときのほうが雄弁になる。
そのときこそ、自分について語る精密な語彙を獲得するチャンスである。
だから、「だっせー」とか「くっせー」とか「さぶー」とかいう単純な語彙でおのれの嫌悪を語ってすませることができる人間には、そもそもおのれの「個性」についての意識が希薄なのである。だから、そのような人間が「好きなこと」を見出して、個性を実現をする、というようなことは起こり得ないのである。

「二十歳を過ぎて、好きなことが見つからないと学校にも行かず、これといって訓練も受けていない人間に、どういうチャンスが訪れるというのだろうか」

という村上の疑問は私にも共有されている。
「学校に行く」ことがどれほど専門的な知識と技術の習得に役立つか、教師として、いまひとつ自信がないが、「訓練を受ける」ということの大事さは骨身にしみている。
それは「自分に出来ないことを言語化する」ことを要求するからである。
「訓練を受ける」というのは、ある情報とスキルの習得のために、限定的な場面で、限定的な期間ではあるが、見知らぬ人間に対して、「100%の恭順」という構えをとることを意味する。
「他者に100%の恭順をもって臨む」という経験の意義は、その訓練を通じて獲得される情報やスキルの「内容」よりもずっと重い。
私たちはほとんど無防備に見知らぬ人間に自分の心身を委ねるのである。
これは容易ならざることである。
うかつに変な「尊師」みたいなものにつかまったら、そのまま地獄落ちである。
「訓練を受ける」ということは、「まだ訓練を受けていない段階」であるにもかかわらず、自分が受けようとしている訓練について、「どの師、どのシステムがもっとも優れているか」を判定しなくてはいけない、ということを意味している。
自分がまだ習っていないことについて、自分が出来ないことについて、何も知らない段階で、「誰が師事するに足る人であり、誰が師として不適であるか」を見切らなくてはならないのである。(それが「おのれの不能を言語化する」ということのひとつの実践的なかたちである。)
「十分なデータがないところで死活的に重要な決定をする」というのが「訓練を受ける」ということの最初の、そして一番重い意味である。
「十分なデータ」があれば、誰だって正しい決定ができる。(できない人もいるが)
「十分なデータ」がないのに、選択をしなければならないとき、私たちの五感は非日常的に鋭敏になる。わずかな情報の断片から、私たちがその一部にしかアクセスできない「もの」のクオリティと深みを探り当てるのである。
そのような五感の錬磨を「訓練を受ける」という動作は前提にしているのである。
適当に「訓練を受けて」みたあとで、「あ、おれ、これぜんぜん向いてなかったわ。」などとへらへらできる人間は致命的に感覚が鈍いのであるから、それからあと、どのような「学校」へ通おうとも、どのような「訓練」を受けようとも、決してプロフェッショナルになることはできないのである。
「ほとんどのフリーターに未来はない」と私も思う。
それは社会の責任ではない。
自分が「何を嫌いか」「何ができないのか」をきちんと言語化することを怠った人間の、「限定的なデータ」から優れたシステムとそうでないシステムを判別することのできなかった人間の自己責任である。