2月22日

2001-02-22 jeudi

アーバンから「株の配当」がくる。
不労所得というのはありがたいものである。
東のほうを向いて、一礼。
平川君、ごちそうさま。
第24期の売り上げ報告も添付されていた。
業務報告の「1・概要」のところにはこう書いてある。

「株式会社アーバン・トランスレーションは1977年に、翻訳・通訳を主業務とし、代表取締役の平川克美、現在神戸女学院大学教授の内田樹(現監査役)らによって設立された。2000年10月をもって24決算期を終了しており、総収入は7億5200万円、従業員数は45名。」

1977年に創業したときの第一期の売り上げが1640万円であるから24年間で45倍になった計算である。
一月の売り上げが500万円くらいのときは、自分のやっている仕事と売り上げと給料の関係が非常に分かり易かった。
仕事をする、お金をもらう、山分けにする、おしまい、である。
7億5千万円というようなオーダーになると、会社のしくみはたぶんそれほど単純ではないだろう。
数年のちには上場の予定らしい。
1962年に小学校で二人で遊んでいるころは、こんなことになるなんて想像もしていなかった。77年に道玄坂のおんぼろビルで創業したときも、こんなことになるなんて、想像もしていなかった。
なんだか夢のようである。
村上春樹の『羊をめぐる冒険』の主人公は私たちとだいたい同い年で、同じ頃、渋谷のオフィスビルで友人と翻訳会社をやっている。その中に会社を創業した二人の男がオフィスで話している場面がある。「1978年の9月」のことだ。

「『いろんなものが変わっちゃったよ』と相棒が言った。『生活のペースやら考え方がさ。だいいち俺たちが本当にどれだけもうけているのか、俺たち自身にさえわからないんだぜ。税理士が来てわけのわからない書類を作って、なんとか控除だとか減価償却だとか税金対策だとか、そんなことばかりやってるんだ』
『どこでもやってることだよ』
『わかってる。そうしなきゃいけないことだってわかってるし、実際にやってるよ。でも昔の方が楽しかった』」

私はこの小説を読んだときに既視感で目の前がくらくらした。

「なんで村上春樹はアーバンのことを知ってるんだろう?」

すぐれた作家というのは、誰でも読者に「なんで、私のことを書くんだろう?」という錯覚を起こさせる力をもっているが、それにしても、ね。
だって、私たちは「1978年の9月」に渋谷のオフィスビルで翻訳会社をやっていて、事業がどんどん拡大してゆくことにたいして、私は平川君にときどき「昔の方が楽しかったね」とこぼしていたのである。
もちろん、資本主義社会は企業が牧歌的に「昔のままであり続ける」ことを許してくれない。この社会では、事業は拡大するか、倒産するか、どちらかの選択肢しかないのである。
それはしかたのないことだ。
でも、ときどきむかしのことを思い出す。
1977年から1979年まで、平川君とコンビで仕事をしていた三年間はほんとうに楽しかった。

ニュース・ステーションを見てたら「日比谷高校復活?」という特集をやっていた。
都立高校の長期低落傾向に歯止めをかけるために、都立日比谷高校が今年から独自入試を試み、「知識的」ではなく、「知的な」高校生を集める積極戦略を展開するというお話である。
受験生には好感されていて、それなりに成果をあげているようだ。
嬉しいことである。
日比谷高校は私の母校である。
私のみならず、夏目漱石や谷崎潤一郎や加藤周一やルパン三世の母校でもある。(ほかにも有名人はいろいろいらっしゃるけど、割愛)
私は二年で放り出されたけれど、今思い出しても、ほんとうによい学校であった。
私が入った1966年には制服がなくて、大学と同じ100分授業移動教室前後期二期制でおまけに土曜が自宅学習日だった。
ちょうどその年に東大入学者日本一の座を灘校に譲って、入学式ではそんなことが話題になっていた。
だいたい二人に一人が東大に入るので、クラスでまんなかくらいまでにいれば「東大当確」という大変に分かり易い構造になっていた。
私は入学時にクラスで一番だったので、(カメラ目小僧だから当然だけど)自動的に「東大入学予定者」に区分されていた。
しかし、「予定」はあくまで「予定」であり、世の中にはいろいろと不随意なことがおこるものである。
びっくりしたのは、私より勉強が出来るひとがごろごろいるということであった。
おまけに、彼らは私のように一日中勉強しているわけではないのである。
世の中は広い。
私は入学してすぐに新井啓右君と塩谷安男君と橋本昇二君という超高校級の秀才と知り合いになり、どっとやる気をなくしてしまった。
16歳なのに、新井君は財界人とため口をきいていたし、塩谷君は国政のさきゆきについて総理大臣のような口調で語っていたし、橋本君は万巻の書を読んで人生に飽き果てていた。
加えて、「小口のかっちゃん」と知り合うに及んで、私は完全にやる気を無くしてしまったのである。(彼の超高校級のボンクラ菌の感染力は、私のような無菌状態で育った「よい子」にとっては致死的であった。)
私の成績はほぼ75度の角度で急降下し、高校二年の中間試験で学年最下位に達し、そこで水平飛行に戻り、そのまま学校から横に飛び出してしまったのである。
しかし、これはまったく日比谷高校の教育のせいではなく、私一人の責任であり、多少は「小口のかっちゃん」のせいである。
ともあれ、私は日比谷高校で実に多くの個性的で魅力的な秀才たちと出会った。(おお、ドクター北之園もそうだ。)そして、彼らから実に多くを学んだ。
1966年入学の日比谷高校生たちは同世代集団としては、私がこれまで出会った中でもっとも愉快で刺激的な人々たちであった。
そういう学校をもう一度作り直すことができるかどうか分からないけれど、日比谷高校のみなさんにはぜひがんばって欲しいと思う。