2月18日

2001-02-18 dimanche

小林昌廣先生の日記を見ていたら、「バロン吉元先生とご会食」という記事があった。
えー。バロン先生とですかあ。いいなあ。
実はバロン吉元先生は私の少年時代の「アイドル」なのである。
1969年は『週刊漫画アクション』の黄金時代であった。春にモンキー・パンチの『ルパン三世』の連載が終わると同時くらいに、長谷川法世の『博多っ子純情』とバロン吉元の『柔侠伝』がブレークしはじめた。
漫画史的には『あしたのジョー』と『天才バカボン』と『巨人の星』と『やすじのメッタメタガキ道講座』を擁した伝説的な1970年の『週刊少年マガジン』ばかりが語られるが、前年の『週刊漫画アクション』の方が個人的には印象が深い。
特に『柔侠伝』はそのストーリーテリングの巧みさと考証の精密さと圧倒的な画力で18歳のウチダを魅了した。
『柔侠伝』は『昭和柔侠伝』『現代柔侠伝』と、近代日本の暗黒面を歩き続けた武道家三代を描いた大長編マンガである。ショーロホフの『静かなるドン』よりも面白い。(当たり前か)
『柔侠伝』のクライマックスは全日本柔道選士権大会での、講道館白帯五段柳勘九郎と「陸奥のタカ」朝比奈剛蔵との決勝戦。
1969年の冬、予備校生をとりまく世界はあまりにも索漠としており、未来に何の展望もなかった私の胸を熱くしてくれるのは柳勘九郎の破天荒な生き方だけであった。私はこの時期ほとんど『漫画アクション』の発売日だけを支えに一週間を過ごしていた。
『柔侠伝』は関川夏央の『坊ちゃんの時代』シリーズに少なからぬインスピレーションを与えたもの、と私は見ている。柔道の試合をクライマックスにもってきたのは、あきらかに『柔侠伝』を踏まえた鮮やかな本歌取りだと思う。
「明治時代の武道」を素材にした物語が例外なく成功するのは『姿三四郎』という素晴らしい説話原型が存在するからかも知れない。富田常雄の『姿三四郎』は何度読んでも素晴らしいが、合気道家には読んでいる人が意外に少ない。みんな、読みなさいね。(何しろ、『猫の妙術』が全文掲載されているんだから。『猫の妙術』の全文を掲載しているのは、たぶん山田次朗吉先生の『心身修養剣道叢書』と平凡社の『日本哲学思想全書・武術兵法篇』(絶版)だけだが、新潮文庫『姿三四郎』でも読めるのである。)


さて、本題に戻るが、私が『週刊漫画アクション』にこだわりがあるのは、もう一つ理由がある。
それは、1969年当時「ダディ・グース」こと矢作俊彦が、私が知る限り二回、「マンガ」を描いていたからである。
矢作俊彦のマンガはアメリカン・コミック風の画風で、そのあきらかにゴダールに影響された映画的なカット割りは手塚治虫以来のマンガ文法を一変させた。
だが、それだけではない。このマンガがそれほど印象深かったかのは、矢作俊彦こそ私がマスメディアをとおして触れた最初の「同世代作家」だったからである。
そのときの衝撃はなかなか言葉には尽くせない。
矢作のマンガは、自分と同じような感性で「いま」を生きていて、自分と同じ語彙でしゃべり、自分と同じような服を着て、同じようなものを食べ、いま自分が歩いている同じ街を歩いている主人公に出会った、最初の経験だった。
69年の暮れに庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』が出て、これはまさに私と同年齢の日比谷高校生が主人公だった。その既視感はめまいがするほどであったが、庄司自身が私たちより10歳以上年長で、その経験のフィルターが利いているせいで、矢作の作品ほどに生々しい「同時代感覚」はなかった。
矢作の漫画家としての(たぶん)絶筆である『ばかばかしさのまっただなかで犬死にしないための方法叙説』の全コマはいまだ私の脳裏に焼き付いている。それほどの衝撃だったのである。
以来30年余、私は矢作俊彦の忠実なファンである。
矢作の小説は出た瞬間に絶版になるので、全作品を揃えるのはたいへんである。(全三巻のはずが「中」まで出て途絶した『コルテスの収穫』まで持っている。これはレア。)
なぜか私の旧友たち三人(松下正己、山本浩二、佐藤昇)が矢作俊彦の知り合いであって、私が「矢作って、いいよね」というと不思議そうな顔をする。
個人的につきあうと、それなりに困った人であるらしい。(まあ、そんな気もするけど)
しかし、私とって矢作俊彦は1969年以来、その小説も、エッセイも、一度として期待を裏切ったことのない「完璧な作家」なのである。(今日の朝日新聞にも外務省の悪口を書いていたが、私は100%矢作に同意する。32年前からずっとそうであったように。)