2月17日

2001-02-17 samedi

森首相がなかなか辞任しない。
はやく辞めて欲しいと、本人以外のほとんど人が思っているのであるが、本人はその気がない。
まさにこの「みんなが・・・して欲しがっているのに、本人にその気がない」というコミュニケーション感度の異常な低さが、この人の適格性の最大の問題点であるので、辞任しないのは当然である。
カフカ的不条理だ。
しかし、これほどまでに「公人としての論理」と「私人としての論理」の位相の違い、ということに無自覚な政治家は日本憲政史上はじめてではないだろうか。
この人は、「日本の総理大臣としてカバーすべき責任範囲」「森喜朗が個人的にカバーすべき責任範囲」を完全に同じサイズにしている。
ゴルフ場で原潜事故の第一報を聴いたあとに、まだしつこくプレーしていて、その理由が「停まっていると、うしろから来るプレイヤーに悪いから」というのには驚いた。
ゴルフのゲームの円滑な進行に優先的に配慮するのは、私人として大事なことである。
外交関係の適切な処置についてすみやかな指示を出すのもまた、公人として大事なことである。
この人は自分が「適切な政治的判断を下すこと」を期待されているのか、「マナーのよいゴルファーであること」を期待されているのか、こういうときにどちらを優先させるべきであるのかが「分からなくなっちゃう」人なのである。
同じような場面を何日か前の予算委員会での質疑応答でも見た。
共産党の書記長が、KSD千葉支部の問題で首相に質問したときに、彼はこう答えた。
「あんた、それ自分で見てきたんですか?」
まさかね。
しかるに、自分で行って見たこと、聴いたこと以外は「信用できない」と首相は言うのである。
では、というので、共産党の書記長が政府による事実の解明を要求すると、首相は答えた。
「私に行って調べろというんですか? 私ね、いま国会会期中で、忙しいんですよ」
とつっぱねたのである。
すごいロジックだ。
この二つの語り口に共通するのは、「公人としての政治責任」を問われるごとに、彼が「私人としてできることの範囲」にそれを矮小化してみせる、というパターンである。
たしかに首相個人が「どこでもドア」でホノルル沖に飛んでいけるわけではないし、日本中の行政や党組織の不祥事をそのつど自分で「探偵」できるわけもない。だから、「私には責任がない」と彼は言う。
自分が任命した大臣の不祥事にしても、彼を首相の座に据えた自民党実力者の収賄疑惑にしても、彼は「私自身が悪いことをしたわけじゃない」からと責任を拒否している。
こんなことを一国の総理大臣に教えてあげなくてはいけないのはほんとうに悲しいことだけれど、「公人としての責任範囲」と「私人としての責任範囲」は「違う」。
公人は私人ではカバーできないことについても有責でありうる。
だれも森個人に責任を取れと言っているのではない。
役人や大臣が収賄したお金を森喜朗個人に「立て替えて返せ」と言っているわけではない。森喜朗個人に「探偵」をしろと言っているわけでもない。
公人としての責任とは、統治システムのどこかに問題があれば全容を解明し、情報を公開し、責任者に(場合によっては森首相ご本人にも)適正な処分を課するように「指示する」ということである。
そんな「指示」は「私人」にはできない。
したいけれど、そんな指示に従って動いてくれる人間なんかどこにもいないからである。(いれば私だってやるよ。)
「私人にはできないこと」を代行するための「公的システム」をつくり、それを維持するために、私たちは膨大なエネルギーと税金を費やしているのである。
公人としての責任とは、その「システム」を、つねに迅速に、効率よく、適切に作動させること。ただ、それだけである。
「李下に冠を正さず、瓜田に沓を納れず」という古諺はみんな知っている。
「すももの木の下では冠のひもがほどけても直さないほうがいい(すももを盗んでいると疑われるから)、瓜の田の中では、沓が脱げても拾わないほうがいい〔瓜を盗んでいると疑われるから)」という役人の心得である。
「冠がほどけたら直せばいいじゃないか、沓が脱げたらはき直せばいいじゃないか。何の遠慮があるものか」というのは「私人の論理」である。
「公人の論理」というのは、そのふるまいが「誤解された場合、統治システムの効率的な運用にネガティヴな影響が出るかもしれないこと」を自制し、「冠がほどけたり」や「沓が脱げたり」という個人的な不快の解消よりも公的システムの効率的な運行を優先する、という気遣いのことである。
「健康管理にゴルフをしながら危機管理もする」というのは、たしかに森首相が言うとおり、物理的には可能であるだろう。
パターを片手に携帯を片手に国家危機を救うことだってできないことではない。(ジェームス・ボンドなら得意芸だ。)
けれども、それは「すももを盗まないで冠のひもをなおすことは可能である」と言い張っているのと同じロジックである。
「だから、おれは断固としてすももの下でも冠のひもをなおすぜ。文句あっか」
でもね。「可能ではあるが、まあ、しないほうがいいんじゃない」ということもある。
現に、森首相は、ゴルフのあといったん私邸にもどってスーツに着替えて官邸入りしている。
ゴルフをしながらでも適切な政治的判断ができるなら、ゴルフウェアを着たままで適切な政治的判断がでないはずはない。
それをどうして着替えたのか?
もちろん「李下に冠」の古諺を一瞬だけ思い出したからである。
「まあ、止めといた方が無難かな」と思ったのであろう。
この配慮は正しい。
スーツに着替えたからといって、それで森首相の政治判断の的確性が増すということはない。ただ「他人の目からは」まじめに仕事をしているように見える可能性が増す、というだけのことである。
それでよいのである。
「これは脱税じゃないんだけれど、他人の目からは脱税にみえるかもしれないから、やめておこう」とか
「これは収賄じゃないんだけれど、他人の目からは収賄にみえるかもしれないから、やめておこう」
というような「気遣い」を公人としての「全行動」に貫徹すること、それが「役人のモラル」ということである。
森首相はゴルフ会員権について、これは「贈与ではない」と言い張っている。
言い張るのは、私人としては当然かもしれない。
できるだけ税金を払わずに済ませたい、というのは「私人の本音」だからである。
しかし、首相は「税金を徴収している側」の最高責任者である。
その人が他人からはびしびし税金を取り立てておいて、自分はできるだけ税金を払わずにすませたい、ということになると、「納税意欲」にかかわってくる。
私はおそらくこの一件によって、今年度大蔵省が徴税できる額は有意な減少を記録するだろうと思う。
首相が率先垂範で「税金はできるだけ払わないほういい」ということを実践しているのである。贈与税なんか誰が払うものか。
だから国庫が失ったのは、本来国庫に収まるべきだった個人の1200万円ではなく、彼がそれを怠った「ように見えた」ために納税者が払うのをやめた膨大な税金なのである。
「私人としては」まあ仕方がない(問題あるけど)、「公人としては」非常に広範囲に、ネガティヴな影響を与える行為というものがある。
そのことを政治家を数十年やってきて「知らなかった」というのが哀しい。
そういう人を首相にしてしまった日本人(私を含めてだけれど)の危機感の希薄さが哀しい。
日本人全員に「こんな国、潰れてしまえばいいんだ」というやけっぱちな「亡国願望」でもあるのだろうか?
そうかも知れない。
それ以外に理由がみつからない。