この一週間、るんちゃんが東京に行っていたので、朝から晩まで、こりこりとレヴィナス論を書いていた。
毎日毎日フッサールばかり読んでいたら、寝ているあいだも頭の中を「必当然的明証性」とか「諸主観共存世界」とかいうきわめて渡辺二郎的な七文字漢熟語が飛び交っている。(そういえば、渡辺二郎という日本拳法出身のボクサーがいたね、むかし。同名異人ですど)
渡辺二郎先生の「哲学」講義は一度だけ聴いたことがある。
私が教室に入ったときに、ヤコブ・ベーメのことを話しているセンテンスの途中で、私が椅子に腰掛けて、ノートを取り出して、鉛筆を構えても、まだそのセンテンスが終わっていなかったので、そのまま聴講を断念した。
そのときに「この人とは一生縁がないだろう」と思ったけれど、意外にも『イデーン』で再会。翻訳はとても分かり易い。
「訳者あとがき」に最近(といっても1984年)の哲学研究の風潮が軽きにながれていることを嘆じておられた。あまりに名文なので再録する。
「昔からもあったことだが、真の哲学的探求を阻む退廃的諸現象も、相変わらずその根を絶っていないのは残念である。奇矯な言辞を弄し何やら才気走った論評をものにすれば、それでもう一廉の哲学者なりと自他ともに許しうるかに錯覚する軽佻浮薄は、いぜんとして存続しているように思われるし、また一方、おのが偏狭固陋に固執して、他説を曲解しまたこれに的外れな駁撃を加えてその裏でおのが皮相な立場については都合のいい文献引証に拠ってこれを糊塗する衒学趣味も、やはり依然として幅を利かせているようでもあり、さらに困ったことには、現今の学問諸領域の流動化と慌ただしい変貌にも眩惑されて、基本的な研究思索や文献精査を等閑に付し、境界的学際的な場面や諸潮流間の迫間に身を置いて、四分五裂の討議応酬に明け暮れすれば、何やら最先端の哲学に与り得たかに思い込む躁病的狂気が、真の哲学と混同されるという風潮も、時折見受けられる。」
うーむ。すごい。
これだけの長さで句点が二コしかない。
「渡辺二郎先生は一センテンスが長い」という私の証言が嘘ではないことがこれでおわかり頂けるであろう。
さて、私もまた「退廃的諸現象」と名指されると後ろめたくなる人間なので、ついどきどきしてしまうのであるが、とりあえず「一廉の哲学者なりと自他ともに許し」たことがないので(これは自信をもって断言できる)、第一の嫌疑はパスである。
また「偏狭固陋」は多少あるが、「衒学趣味」とはおおむね無縁なはずなので、第二の嫌疑も(たぶん)パスである。
しかし、「基本的な研究思索や文献精査を等閑に付し、境界的学際的な場面や諸潮流間の迫間に身を置いて」というところはびしびしと思い当たる。
私は何しろ自ら「ニッチビジネス」を看板に掲げて、「境界的学際的・諸潮流間の迫間」で「だけ」商売をさせていただいており、これを「あかん」と言われては飯の食い上げとなる。
ニッチビジネス的研究というのがどういうものかご存じない方のために、ここで簡単にご紹介しておこう。
私は「日本でフランス語がちゃんと訳せる翻訳者」ランキングの200位くらいのところにいる。これはまあ「圏外」と言ってよい。この程度の翻訳者のところにはまずまっとうな仕事は回ってこない。
さらにまた「日本でユダヤ教のことが分かっている研究者」ランキングでは、350位くらいのところにいる。これはさらに「圏外」であって、「この人にユダヤ教のことを訊いたら何か分かるのでは」と期待するのはよほど世間知らずである。
さらにまた「現代思想の専門家」ということになると、順位は一気に1395位くらいにまで下がる。これは、私の上位には大学院生どころかちょっと気の利いた学部学生もごろごろいるという順位であり、『現代思想』とか『批評空間』とかいうメディアからはまず原稿依頼が来ないと考えてよい。
なんだ、ひどいなあ。どうしてそんな人が大学の先生やってられるんです?と不思議に思われたでしょう。
べつに詐欺を働いているわけではない。ちゃんと秘密があるのです。
私はそれぞれの専門領域では三流以下的なポジションにいるわけであるが、これが「現代思想研究者で、ユダヤ教研究者で、フランス語が訳せる」という三つの条件をかけて検索すると、たちまち全日本ランキングのベストテン入りを果たしてしまうからである。
レヴィナス老師のタルムード論を訳すというようなお仕事に手を出す人は日本に二人しかいない。したがって、一方の人が風邪をひいたりすると、「じゃ、ウチダに頼むしかないか」という圧倒的な「希少性」がここに生じるわけである。
これをして私は「ニッチビジネス」と称しているわけである。
同じように、私は「武道研究家」とか「能楽研究家」とか「主夫評論家」とか、いろいろなランキングの下位に顔を出しているが、これがまた「修羅ものにユダヤ教が及ぼした影響」とか「武道修業における主夫業の効用」といった論件が浮上した場合には、その希少性が際立つて仕掛けになっているのである。(あまりニーズのない複合種目ばかり、というのが残念であるが)
というわけで、私は学生諸君には、「得意科目一つ」でもがんがんいける人はそれで結構、しかし、「得意科目一つでは勝負にならない」人の場合は、「意外な裏技」を身につけニッチで小商いをする、という手があるぞ、といつも言い聞かせているのである。
ニッチビジネス系研究の基本スタイルは「表」と「裏」に「抑え」のパッケージである。
私の場合であれば「表」が「フランス現代思想」で、「裏」に「ユダヤ」と「武道」と「バカ映画」が入って、「フランス語と英語」が一応「抑え」になっている。
鈴木晶先生も年季のはいった「ニッチビジネス」系研究者であるが、先生の場合は「表」が「精神分析理論」で、「裏」に「グリム」と「バレエ」が入って、「ロシア語、英語、フランス語」が抑えを利かしている。
しかし、そうはいっても、ニッチビジネス稼業の修業はいうほどたやすいものではない。「抑えの外国語」の締まりが利かないとあんまり使いものにならないからである。
というわけで、学生さんには、若いときはまず「外国語」をきちんと身につけるように、と言い聞かせている。
外国語の習得は本質的に「力仕事」であるから、「時間」さえかければ、なんとかなる。そして、時間がいくらでも余っている時期というのは人生においてあまりないのである。(おお、意外に常識的な結論)
(2001-02-16 00:00)