2月10日

2001-02-10 samedi

鈴木晶先生の誹謗メールに私への言及があったため、つい逆上して長い日記を昨日書いてしまったけれど、この誹謗メールは鈴木先生あてのものであって、私が勝手にコピーして公開したりする権利がないということにアップロードしてしばらくしてから気がついた。
ブラックメールが今回のもののようにたいへん「興味深い」内容のものである場合、これが数十通たまると、それを本にして出版して印税収入を得るということだって可能性としてはありえないことではない。その場合、当然、コピーライトはブラックメールを受け取った鈴木先生かあるいは「犯人」のどちらかに帰属するわけでで私が勝手に「コピーフリーです」と公言している私のサイトで先行公開してしまっては、お二方のお立場というものがない。
先生にはすぐにお詫びを入れたが、「犯人」にはわびようがないので、仕方なくこの場を借りてお詫びしたい。深謝。ごめんね。

やれやれ。
いろいろとはためいわくな事件であった。(まだ終わったわけではないが)
同じはなしをしつこく引きずってまことに申し訳ないのであるが、私は昨日、誹謗メールの文面を解読する際に、致命的な誤読をしていることをその後読み返して発見した。
それは次の箇所である。

「あなたの日記こそ誹謗中傷そのものではないですか。
今から読もうと思っていた本、今から買おうと思っていた商品、せっかく買ったチケット、などなど・・・。 WEB上の日記という多弁・能弁なメディアで好き勝手に誹謗されて、どれだけ傷ついた人間がいるのか考えないのでしょうか。
日記だから何を書いても良いというのは、「日記」は秘匿性を持っているからこそではないですか。」

私はうかつにも「今から読もうと思っていた本、今から買おうと思っていた商品、せっかく買ったチケット、などなど」というのを日記の中での鈴木先生のことだと思ってしまって、そのように分析してしまったのだが、これはよく読めば中傷子本人が「読もうと思っていた本、買おうと思っていた商品、せっかく買ったチケット」のことなのである。
私のまったくの読み間違いだった。
つまり、この方が「読もうと思っていた本」を鈴木先生が先に読み、「買おうと思っていた商品」は先に買われてしまい、「せっかく買ったチケット」は先に見に行かれて「バレエ評」を書かれてしまい、どの場合でも「無垢な気持で」モノに接することができなくなってしまったと、こういう事態について、この人は抗議していたのであった。
なるほど。そういう可能性は吟味しなかった。
吟味しなかった私も悪いが、そういう可能性を私の「常識」はとりあえず排除していたのである。
というのは、もしそれがほんとうであるとすると、話は「誹謗中傷」という水準を超えて、いきなり深刻なものになるからである。
もしこの人の言うとおりであるとすると、鈴木先生はつねにこの人の「先回り」をしていることになる。
そんなことがほんとうにありうるのだろうか?
AさんとBさんが「読みたい本が同じで、買いたいモノが同じで、行きたいバレエが同じであるような人」であるというようなことはそれほど頻繁に起こることなのだろうか?
かりにそうであるとしたら、この二人が非常に気質や価値観が似ているということを意味しており、ふつうは「わーい、私と同じことを考えているひとがいる(うれしいな。おともだちになりたいな)」というふうに発想は展開してゆくはずである。
しかるに、それがここでは逆転している。
AさんがつねにBさんの「先回り」をして、欲しいモノをつぎつぎとかっさらってゆき、夢見たモノをつぎつぎとスポイルしているのである。
このBさんの経験がご本人にとって心理的事実であるとすれば、精神分析を少し勉強したことがあるひとはなら、だれでもあの症例を思い出すはずである。
そう、ラカンの「症例エメ」、あの「二人であることの病」(mal d'etre deux) である。
エメは有名な女優のZ夫人が、彼女の「コピー」であり、本来エメに属すべき名声や社会的地位や美貌のすべてを「先回りして騙し取っている」という妄想にとらえられ、二人に分裂した自我を統一しようと試みる。
Z夫人はエメの理想我である。
だとすると、「鈴木晶」は「犯人」にとっての「理想我」だということになる。
つまり、彼に(もう「彼」と断定してよいでしょう)本来属すべきであった、さまざまの社会的なリソース(高学歴、高収入、愉快な家族、鎌倉の豪邸、はなやかな交友関係、知的威信、などなど)を、彼にそっくりの人物である鈴木先生が、彼から根こそぎ奪ってしまった、というふうに彼は妄想しているのである。
だから、許すことができないのである。
彼は「自分のものを返せ」と要求しているのである。
だから、鈴木先生が「ある本を読んだ」と書いたのを見ただけで、「それこそ私がこれから読もうと思っていた本だ」と思い込み、先生が「買った品物」を「それこそ私がこれから買おうとしていた品物だ」と思い込み、先生が見に行ったバレエが「それこそ私がこれから見に行くはずだったバレエだ」と思い込む、という前後関係の逆転が生じるのである。
どうして、この男が鈴木先生の日記を丹念に読むのか、その理由が私にはよく分からなかった。(だって、自分とものの考え方がまるで違う人の日記なんて読んでもちっとも楽しくないのに。)
しかし、彼は読むのを止めることができなかった。
なぜなら、そこには「彼がするはずだったこと」が書いてあるからなのである。
つのだ・じろうの『恐怖新聞』と同じである。
「電悩日記」を読むと、そこには「彼がするはずだったこと」はすべて鈴木先生に先回りされてなされてしまっていることが記載してある。彼はもうそれをすることが許されない。
彼の「未来」は日記において失われているのである。
だから「電悩日記」を読むと、彼は未来を失う。
しかし、いったい誰がクリックさえすれば、「自分の未来」が知れるときに、好奇心を抑え切ることができるだろう。
それゆえ、彼の叫びは「お願いだから日記を書くのを止めてくれ」という悲痛な要求のかたちをとるほかないのである。
私は深刻な気分である。
この人物の心はかなり深く病んでいる。
適切な治療が早急に必要だと私は思う。
「エメ」が最後に理想我とのあいだの「どちらがほんもので、どちらが鏡像か」の葛藤に決着をつけようとしたか、私たちはラカンを読んだので知っている。
それに類することが鈴木先生の身に絶対に起こらないとは限らない。
問題の解決は緊急を要すると私は思う。
「犯人」もこれを読んでいたら、その足で精神科に行くことをお薦めしたい。

(その後、今日(13日)まで、メールは鈴木先生のところにも私のところにも届いていない。これで終わりとなってくれればよいのだが)