鈴木晶先生のHPが再開されるようである。
さすが鈴木先生、誹謗中傷メールに対して、泣き寝入りどころか、名誉毀損と業務妨害として法的に対処するということである。
匿名メールとはいっても発信元を探り当てることはいまではたやすいことである。発信者が特定されたら告訴ということになるらしい。有罪となれば、学内の教職員やふつうの会社員であれば、懲戒免職ということになる。
おそらく、メールを出した本人はまさかそれほどのおおごとになるとは思ってもいないで、気楽に「いやがらせをしてやろう」と思っただけなのだろうが、「喧嘩をするなら相手を見てしろ」という常識を欠いた報いである。失職して路頭に迷うことになるかもしれないが、身から出た錆、気の毒だけれど、しかたがない。
鈴木先生が身銭をきって法的に対応することでインターネット・コミュニケーションにおけるルールの確立に向けて貴重な一歩が踏み出されると思う。だから、内田は先生の法廷闘争を応援するつもりである。
しかし、わが身を省みるに、ホームページを開いてそろそろ二年、その間、言いたいことを書きまくってきたわけで、中には読んでずいぶん腹を立てた人もいたことであろう。(もちろん、「読んだら怒るだろうなあ」と思いつつ書いているので、それを読んだ人が怒るのは当然である。ごめんね。)
しかし、さいわいにも匿名の誹謗メールのようなものは、一度も来たことがない。
なぜだろうと考えていたら、答えが見えた。
鈴木先生のプロファイリングによると、誹謗中傷メールの発信者のいちばんの動機は「嫉妬」であるらしい。
それで、腑に落ちた。
おそらく、私のホームページの読者たちは、私の態度の悪さに「怒り」を感じることはあっても、私の優雅な生活ぶりに「妬み」を覚える、ということはなかったのである。
なるほど
考えて見れば、そうだわ。
私の一日というのは、掃除して、洗濯して、講義をして、本を読んで、原稿を書いて、お稽古をして、ご飯をつくって、バカ映画を見て、ウイスキーを呑んで、おしまいである。
ドレスアップして「おでかけ」というようなことは年に何度もない。美食にも美酒にもご縁がない。旅行もほとんどいかない。映画も年に3、4回しか見に行かないし、劇場にも行かないし、展覧会にも、コンサートにも、カクテルパーティにも、海にも山にも行かない。編集者と打ち合わせで文壇バーをはしごするとか、「吉兆」で対談するとか、ホテル・オークラにカンヅメになるとか、印税でカンヌに別荘を建てるとか、出版記念パーティで知り合った女流作家と浮き名を流すとか、そういう「売れっ子学者」にありがちな出来事は私の身には決して起こらないのである。
私の一日を『トゥルーマン・ショー』みたいに24時間放映しても、たぶんおおかたの視聴者は最初の30分だけで退屈さに耐えきれずチャンネルを変えてしまうだろう。
それほどよそさまからすれば退屈な日々である。
こんな生活を「妬ましく」思う人がいるはずがない。
というわけですので、私の書いたものでお怒りになった皆様、どうか「こんなに索漠とした生活をしている独居老人の三流学者なんかと喧嘩しても時間のむだだわ」とよくよくご賢察されて、ここはひとつご本業ますますのご発展を心より祈念させていただきます。はい。
と、書いて筆をおいたところに当の鈴木先生からメールが来て、なんと、誹謗中傷の火の粉が私の身にまでふりかかってきたことを知らされた。
私なんか誹謗しても、誹謗するまえよりずっと気分が悪くなるだけなんだから。よせばいいのに。
とりいそぎ、ここでみなさまにかさねてご警告申し上げておきます。
ウチダを誹謗することはあなたの健康を損なう可能性があります。(できれば一日五分程度にとどめておきましょう。また、週に一度は「ウチダのことを考えない日」を設けておかれることをお薦めします。)
ま、まじめな助言はさておき、鈴木先生からコピーさせていただいた誹謗メールはなかなか興味深い内容を含んでいる。「ほんもの」ならではの迫力とかいうものがおのずとただよっており、味わい深い。
せっかくであるから、三通順番にご紹介しましょう。(こういうのはコピーフリーですよね? たぶん?)
では最初のメール。
「先生。
いいかげんにしたらどうですか。
事務局職員はみんな笑っています。
先生は、脳タリンなバレエ少年少女を相手にしていればよいのです。
3流の学者が2流の大学にはもったいない。
バレエのバカ娘の親たちにチヤホヤされているのがお似合いです。
学内でカッコつけるのはやめてください。
そんなに品もないのに。
オッホホホ〜。」
このメールで鈴木先生は発信者は学内のひとかな、と想像されたわけである。なんとなく、そんな感じがする。最後の「オッホホホー」というサゲがちょっと怖いけど。こんなこと書く大学の教職員がほんとうにいるのだろうか・・・いたとすると、法政大学もなかなかディープだ。
さて二通目。
「先生そろそろくだらないHPやめられたらどうですか?
単なる自己顕示・自己PRではないですか。
あるいは、シャープの液晶技術の独占を非難しながらアップルは擁護する。
矛盾だらけの立派なご意見。
専門外のことに関しては良く研究してからものを言ってくださいよ。
そうでなければ、自分だけでなく家族までの自慢。
とても、まともな感覚とは思えません。
学内で評判ですよ!
最高におかしいのは、茶髪は良くて、黒髪きらい。
あきらかな、西洋人に対する劣等感の裏返しに、哀れささえ感じます。
バレエを趣味にするとそうなるのですかね。
黄色い顔でやったって大体が日本人には似合いませんよ。」
あまり迫力ないですね。でも「先生」というよびかけや「学内」という言い方は一通目と共通。
さて、三通目は、なんと女性の名前で、封書で来たそうである。それも熊本県人吉から? 同一人物か、それとも市ヶ谷と人吉をむすぶユングもびっくりのシンクロニシティ?
「鈴木様
かなり早い時期からの貴殿のホームページ(以下HPと略します)の読者ですが、
最近の貴殿のHPについて一言。
バレエの世界に一応の足場を築いたのは偉いと思いますが、マイナーな世界では多少の研究家になれるという意図のもとにしているのでしょう。(それなりに先見の明はあると言うべきか?)
それに、文章の内容の矛盾に気をつけた方が良いのではないですか。たれ流しはしていないと言いつつ、本当は見て欲しい気持ちがミエミエですよ。
また、出自や家庭の自慢をするのはみっともないです。結局、劣等感のなせるわざではないのですか。あなたよりすぐれた人はたくさんいます。世の中は広いですよ。
事象をさまざまに解釈し、思い込みに満ちた妄想を意味付けし、読者に誤った情報を流すのはやめてもらいたいです。
専門の精神分析で自分自身を分析してみたら、よろしいかと思います。偏見に満ちた意見で、認められない欲求不満を解消する事はやめてもらいたいと思います。あなたの心奥に潜む劣等感は何なのでしょう。
くだらないHPはやめて、本業に専念したら少しはまともな論文が書けるのではないですか。あなたの講義を受ける学生がかわいそうです。
はっきり言って、二流(三流)の学者のくせに一流ぶるのはやめてほしいと思います。」
文章の感じがよくにているので、おそらく同一人物の筆になるものであろう。
自分を「庶民」のポジションに設定して、「エリート」である鈴木先生がなにかと際立つことにたいして、「ワイドショーのコメンテイター」的な感覚で「やーねー。自分のことなにさまだと思ってるのかしら、ばっかみたい」というような「下から上を見下す」視線(オスギみたいだね)が三つのテクストには共通している。
こういうのは、その人の「思考の指紋」みたいなものである。
さて、ここまではよいのであるが(よくもないけど)、なんと四通目のメールでは私が批判の俎上にのせられてしまったのである。(オーマイガ)
「「ホームページやめないでください」
と言うメールがたくさん来るのではないですか?
しかし、あなたの「無責任」な放言に傷つけられた声無き人々の方が、
数はずっと多いと思いますよ。
先日の日記にあった、「あなたのためにまだまだできることはある」は、あなたたちを萎えさせることは、まだまだある」と理解しております。
あなたの日記こそ誹謗中傷そのものではないですか。
今から読もうと思っていた本、今から買おうと思っていた商品、せっかく買ったチケット、などなど・・・。
WEB上の日記という多弁・能弁なメディアで好き勝手に誹謗されて、どれだけ傷ついた人間がいるのか考えないのでしょうか。
日記だから何を書いても良いというのは、「日記」は秘匿性を持っているからこそではないですか。
「自己宣伝」のためにHPを作っているのだが、それが何か?」だそうですが、
開き直りにすらなっていません。
しかも、気持ちの悪い友達の「元少女おじさん」の口を借りるなんて。
内田先生も自分のことを結構自慢されますが、そこには割と「やぶれかぶれ」の「偽悪」と「稚気」が感じられるのに対して、あなたの自慢は、いかに自分がエリートかということを、これでもかこれでもかと、自分や家族や母親までも持ち出して、まさに「偽善」のにおい。自分のエクセレンシーを発揮するなら専門分野でされたらどうですか。
匿名で誹謗中傷されたと言われますが、それこそ「名も無き」人々にとって「匿名性」と通信の秘密」が担保されていなければ、自由にかつ安全に「もの申す」ことができないではないですか。この「安全」という保証こそが「表現の自由」と表裏一体をなすものですよ。
これを世間では「常識」と言うのです。
また、ホームページを持つ以上、開設するものにとって、それが自己宣伝であることも常識でしょう。
あなたのHPの中身は「自己宣伝」ではなく「お家自慢」以外の何物でもありません。
たとえば、母上が踊りの先生だったの一言で「良家」を演出したつもりですか?
上流家庭のご婦人は「教える」ことを業とはしませんよ。
そんなことをやるのは割と「下層」な家ではないですか。
「良家」の人々はほかに収入の道があって「バレエ」を含めた「娯楽の対象」を「習う」か「鑑賞」する側ですよ。
あなたの日記は奥さんの料理の自慢にはじまり、奥さんの「お育ち」の自慢、娘の自慢の
あれこれ、あげくの果ては猫の自慢。
もちろん自分の自慢については枚挙にいとまがないですね。
「鈴木姓」の自慢、食べ物の自慢、お友達の自慢、母親の自慢まで、次はどんな「自慢」が出てくるのか学内で話題だそうではないですか。
次の日記が待ち遠しいです。(ワクワク!)
精神分析、心理学の領域において本を出している割には、他人の心理をわからないみたいですね。
調査不足ゆえの矛盾と思い違いによる空疎・無神経な言葉で人を傷つけないでください。
それこそ、うんざりです。
なお、念のため申し添えますが、このメールはあなたを誹謗中傷するものではなくて、日記に傷つけられている多数のバレエ愛好家の意見を代弁するものです。」
これには私も驚いた。
うーむ。言葉もない。
「あなたの日記こそ誹謗中傷そのものではないですか。今から読もうと思っていた本、今から買おうと思っていた商品、せっかく買ったチケット、などなど・・・。」
って・・・この人は、鈴木先生の日記を読んで、これから先生が読むつもりの本や、買うつもりの品物や、見に行く予定のバレエのプログラムなどを空想するだけで傷ついてしまうのでああろうか・・・
たしかにその点では鈴木先生が「罪作り」なお人であることは私もみとめる。
鈴木先生の日記を読んでいて、とくに美味しい魚が手に入ったので、それをさばいてシャンペンなどを召されている場面などの微に入り細を穿つ描写に触れて、悶絶しない読者はいないであろうし、バレリーナたちとのパーティの場面で「草刈民代ちゃんと懇談」などという一行を読むと「なんでなんでこのおじさんばっかりえーおもいして」と輾転反側する若者もあろう。私にもそれはよく分かる。悔しいであろう。(私だって悔しい)
しかし、それは単に鈴木先生がハッピーな人生を送っておられるということであって、「私」とは何の関係もない。鈴木先生はべつに私に不愉快な思いをさせるためにご本人の幸福を追求しているわけではない。
それを「私への誹謗中傷」と理解するのはかなり重篤な関係妄想と断ぜねばならぬであろう。しかし、この人はさらに続ける。
「WEB上の日記という多弁・能弁なメディアで好き勝手に誹謗されて、どれだけ傷ついた人間がいるのか考えないのでしょうか。日記だから何を書いても良いというのは、「日記」は秘匿性を持っているからこそではないですか。」
うん、わかった。
この人は「誹謗」という漢語に新しい意味を加えたのである。
「ヒボウ」の語義はこの方の解釈では「自分の幸せを誇示することで他人を落ち込ませること」なのである。
これで、すべてのつじつまが合う。
だって、鈴木先生は「好き勝手に」自分の幸せな生活を克明に記述しはしているけれど、人の悪口はほとんど書いていないからである。(私とはそこがおおいに違う。)
そうだったのか。それなら分かる。
たしかに、それなら鈴木先生はインターネットを駆使して「好き勝手にヒボウしている」。それを読んで悔し涙にくれた人も決して少なくないであろう。それなら分かる。同情します。
「匿名で誹謗中傷されたと言われますが、それこそ「名も無き」人々にとって「匿名性」と通信の秘密」が担保されていなければ、自由にかつ安全に「もの申す」ことができないではないですか。この「安全」という保証こそが「表現の自由」と表裏一体をなすものですよ。
これを世間では「常識」と言うのです。」
これはまったく間違っている。
インターネットのホームページで私たちが書いたことについて、読者は全員「自由かつ安全に」反論する権利が確保されている。
私たちはそれがどれほど当を失した反論であろうとも、それに対して言論で反撃するだけである。家を探しに行って、えりくびつかまえて締め上げるとか、無言電話をかけるとか、そういう刑事事件になるようなことはしない。
言論による反撃(現在私や鈴木先生がホームページでしているようなこと)によって、文句をつけた読者が失うのは、最大限インターネット上での「知的威信」と「ポピュラリティ」だけである。個人間のメールのやりとりであれば、それさえ失うことはない。(言いこめられていやな気分になる、ということはあるだろうけれど、それくらい我慢しなさい。)
それくらいのことで「表現の自由」というような重い言葉を使ってはいけない。そのような言葉はもっと本気の場面のためにとっておくものだ。
ほんとうに権力を持ち、ほんとうに言論を封殺することのできる人間に対して真剣なたたかいを挑まなければならないときには「自由と安全」のために匿名性を利用することは政治的判断として正しい。
けれども、私や鈴木先生のような何の権力もない人間(せいぜい学生の成績査定権くらいしか持っていない人間)を相手にするときにさえ、匿名性に逃げ込むようなふやけた人間が「ほんとうの権力」と対峙するという可能性は限りなくゼロに近いだろう。
ほかにもいろいろと逐語的に分析したいことはあるけれど、もうちょっと飽きた。バカのタクシノミーに熱中するのもなんだか不毛である。
本日の教訓:「賢さの様態はだいたいどれも同じであるが、バカの様態には限りがない。」
(2001-02-09 00:00)