2月6日

2001-02-06 mardi

歯茎が痛い。
私は口腔右側の歯茎と左膝に身体的「弱点」をかかえている。
定期的に歯茎は炎症を起こし、膝は疼痛を発する。
先週は膝の痛い週で、今週は歯茎の痛い週である。
膝の痛みは静止状態では感知されないので、私の奔放な哲学的思弁をいささかも妨げないが、歯茎の痛みは論理的思考が一定以上の深度に達することを執拗に妨害する。

フッサールの『イデーン』によれば、「体験の中で与えられているものは、志向的客観であり、志向の働きそのものに実的に内在しており、かりにそれに対応する『現実的客観』が現実のうちに存在しなくても、それにかかわりなしに、その志向の働きによって思向され表象される」そうである。

こういう文章を読んでも、昨日までの私であれば「ふむふむ、なるほどね」と対象のノエマ的存立構造についての思索を深めていたのであるが、今日は歯茎が痛いので、「この痛みは現実的客観からは相対的に独立した志向的客観であり、私が『あ、痛い』と志向的に認識すると同時にいわばその思量に随伴するかたちで志向的に構成されているのであろうか(だったら、私が志向的思向を停止すれば、この痛みは消えるのだろうか?)」というような雑念に思念が集中してさっぱり思弁が奔放にならない。

「身体がある」ということが精神の運動を規制するというのはほんとうである。
私がデブだったとき(って、いまでもけっこうデブだけど)、脂肪のかたまりが机と私のあいだに介在して、私が原稿書きに熱中することをしばしば妨害した。(「腹が見える」というのは人が形而上学的気分になる上で、あまりプラスのインセンティヴにはならない。)
肥満以外にも、眠気、空腹、肩凝り、頭痛、泥酔、なども効果的にコギトの活動を妨害する。
ああ、身体がなければどれほど自由に思考できるであろうか、と私は慨嘆したのであるが、皮肉なもので「身体がないような感じがする」というのは「身体が健康である」ということの別の表現なのである。
というのも、「身体の健康」というのは積極的に「身体の具合がよい状態」のことではなく、「とりあえず有意な不調が前景化しない状態」のことだからである。
私たちは髪の毛が抜け出してはじめて自分が髪の毛を有していたことに気づき、心臓が止まってはじめて心臓が動いていたことに気がつくような仕方で身体にかかわっている。(心臓が止まった場合は「心臓が動いていたことに気がつかない」こともある。)
ともあれ、健康であるとは、健康であることがまるで意識されない状態のことであり、健康でないとは、健康でないことがたえず意識される状態のことなのである。そして、健康であるためには、絶えず健康のために気を使ってないといけないのである。
めんどくさいけど、仕方がない。
「子を持って知る親の恩」とか「墓にふとんはきせられず」とか「幸せの青い鳥」とか、いろいろなことが言われるが、要するに、私たちにとって「よいもの」はたいてい「失ったのちに、欠性的に意識される」というかたちでそれが「あった」ことが知られるのであり、それがあるときには、それがあることを意識しておらず、当然にも少しも感謝の気持なんか持っていなかったのである。
あるときには気がつかず、失ったあとになって胸をかきむしるほどの欠落感を覚えるものを「いま」想像できて、それを確保するために全力を尽くせる人はたぶん人生においてそれほどひどい目に合わないですむだろうと思う。
さて、私にとって、「いまあって、失ったら死ぬほど苦しむもの」は何だろう?
何となく分かるような気がする。
たぶんそれは「自由」である。