「最後の春休み」(@ユーミン)なので、るんちゃんは毎日家でごろごろしている。そして、「試験もなんにも、ない!」と『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌をたのしげに歌っている。
よかったね、「試験もなんにもなく」て。
しかし、いつ起きるか、いつ寝るか、いつご飯を食べるのか、ぜんぜん予測不能なので、しかたなく、主夫として「ご飯その他については自己管理、自己責任とする」ことを宣言した。
基本的に自分でつくって自分で食べる。材料費は実費をこちらが負担する。もちろん、私がご飯をつくっているときに近隣を通りかかった場合などは、シェアするにやぶさかではない。というかおおいに歓迎である。一緒に食べる方が楽しいからね。
というわけで、「定時にご飯を作る」という桎梏から解放された。
これでほとんど主夫の仕事はなくなったに等しい。
さっそく夕方から映画を見に三宮にでかける。
ひさしぶりの都会である。
映画は北野武の『ブラザー』。
とてもおもしろかったです。うん。
しかし、映画館というところはあまり愉快ではなかった。
だって、ほぼ全員が「ペア」なんだもの。
それも「仲良しペア」というのなら私も許そうではないか。仲のよい男女というのは、見ていてほほえましいものであるから。
それがなんか違うんだよ。
仲、悪そうなんだな。どいつもこいつも。
何が嫌いといって、仲の悪い男女を見ることほど嫌いなものはない。
とくに、一方がいかにもおもねるような口調でいるのに、他方が横柄な返答をしているのを見ると、むかむかしてそのまましばき倒したくなる。
そんな横柄な態度をとるくらいなら、いっしょに来るなよ。バーロー。
一緒に来るなら仲良くしろよな。
じっとみつめあって、ほほえみあってろよ。いいから。黙って。
などと怒りつつ、映画を見る。
私が核家族嫌いなのもたぶん同じ理由である。
仲が悪いのにいっしょにいる、ということが不愉快なのである。
旅先のドライブインみたいなところで、家族がご飯をたべているところに出くわすと、ほとんどの場合、家族の誰かが「私はこんなバカな旅行なんか来たくなかったんだからね、そこらへんの通りがかりの人たちも、私をこいつらと同類だと思わないでよね」という信号を全身から発信している。
それは子供である場合もあるし、妻である場合もある。
日曜にスーパーの駐車場なんかにいくと、おじさんが黙って車の中でみんなの買い物がすむのを待っていることがある。それほどまでにみんなといっしょにいたくないなら、止めろよ。そういう生き方そのものを。
私はそういうのを見るといたたまれなくなる。
仲が悪いなら、いっしょにいるなよ。頼むから。
どうして、この人たちは「私はいっしょにいるこいつらと決して仲良しではないのである」というようなメッセージをなんの関係もない私たちに発信し続けているのであろうか。
私には分からない。
もしかすると、誰かが(上野千鶴子とか筑紫哲也とかが)「不機嫌でいる」ことは「上機嫌でいる」ことよりクールで、知的に見える、というような不埒な幻想をまきちらしているのではないか。
「メッセージボード」にもちょっと書いたけれど、鈴木晶先生のホームページがしばらくお休みになってしまった。先生のホームページは「自己宣伝」の場にすぎない、けしからんというような誹謗メールが集中的に送りつけられてうんざりしたそうである。
私は自己宣伝のためにホームページをつくっているのだが、それが何か?
とは鈴木先生のお言葉であるが、まったくこれほどクリアカットなスタンスでいる鈴木先生に向かって匿名で誹謗中傷をするような奴は、その一点で人間のクズである。
批判は固有名でする。
そんなのは常識である。
おのれの固有名において発信できないような言葉にいったい人は「何を」託そうというのか?
まったく。
あ、いけね、不機嫌になっちゃった。これでは知的に見えてしまう。何か言わねば。
「とは」は千早の本名で。
おあとのしたくがよろしいようで。ちゃんちゃん。(原君、志ん生のMDありがとうございました。でもこのサゲじゃないのね志ん生の『千早振る』は)
(2001-02-05 00:00)