2月2日

2001-02-02 vendredi

一般入試前期日程。
こういうことを言うのはすごく失礼だけれど、今年の受験生は「賢そう」だった。
実は何年か前(いつかは言いませんけど)、試験監督に行って、教室で受験生の顔をみたとき「ぎくり」としたことがあった。
「なんか・・・ワイルド」
それに比べると、今年の受験生は10年くらい前の受験生に感じが似てきた。
もしかすると神戸女学院は「復活」しつつあるのかも知れない。

入試のあとに6時から科別教授会。
議題そのものは10分で終わるような話なんだけれど、それが二時間半を要した。
長くなるのはもちろん「長く話す」人がいるからである。
会議で長く話すには理由がある。
「自分の言っていることをみんなが受け容れてくれない」からである。
ひとは熱い同意のうなずきを目にした場合、贅言を割愛するものである。
しかるに、話が長くなるのは、聴衆の表情に「同感」と「喜悦」の感情が読みとれないからである。
その人の話を「みんなが熱烈に受け容れてくれない」場合、理由は二つしかない。
「言っていることが変」なのか、「みんなの理解力が低い」のか、どっちかである。
「聴衆の理解力が低い」ということは大いにありうる。その場合、さらに雄弁をふるうのはたいへんに理に適ったことである。
しかし、「言ってることが変」である可能性も吟味すべきである。
「みんなが自分の演説に深い同意のうなずきをもって反応しない」場合は、当該発言者に「えーと・・・もしかして、バカなのはこっち?」という哲学的省察が兆すことを列席者は期待してもよい、ということになっている。いちおう。常識的には。
しかして、その期待は多くの場合むなしいものに終わる。しばしば。ほぼ、つねに。
(って、小津安二郎の映画の見すぎなんですけど)
人間は誤りを犯す。
誤りを犯すことは少しも恥ずかしいことではない。
かつてクレージーキャッツのコントで植木等は繰り返し誤りを犯し、そのたびに周囲の人々の冷たい視線を感知して、
「あ、お呼びでない? こりゃまた失礼致しました」
とすずしげに去っていった。
知性とは「お呼びでない?」という前言撤回の言葉を、どんな場面でも、どのような機会においても発しうる能力のことであると私は思う。
私が知る限り「前言撤回」に知性の有り金を賭けたのはレヴィナス老師である。
老師は、ひとこと語るごとに、それを疑い、相対化し、撤回した。
「権能の哲学である存在論は、同一者を審問することがないがゆえに、不正の哲学である」と断言したすぐそのあとにも、老師の脳裏には宿命的な懐疑が兆すのであった。だから、老師はしばしばこう付け加えることを忘れなかった。「と言うのはほんとうだろうか?」

先日「エゴの会」(「もと少女おじさんの会」ね)の発足をたからかにうたい上げたところたちまち鈴木晶先生からカミングアウトの言葉が寄せられた。
さっそく先生のホームページからその部分をペーストさせて頂きます。

「そうそう、先日、内田先生が日記に「EGOの会」を結成すると書いておられた。
EGOというのは Ex-Girl Ojisan、つまり「もとは少女であったおじさん」のことである。世間から見たら、相当に気持ち悪いイメージだが、もと少女おじさんは意外に多いのではないか。カミングアウトできなくて悩んでいるんじゃなかろうか。
内田先生ご自身が「もと少女」なのだが、じつは私もそうである。会員第一号にしていただこう。
私の実家は大井町線の「戸越公園」という駅が最寄り駅だが、そこから電車を二駅のると終点の大井町である。大井町の駅周辺は、最近でこそ再開発のせいでかつての面影はないが、つい20年くらい前までは「戦後はまだ終わらない」みたいな雰囲気があったので、小学校のころは、大井町まで行くことは学校で禁止されていた。3年くらいのときだったろうか、それを承知で、友だちと二人で大井町のデパートまで探険に出かけた。その友だちはおもちゃ売り場でプラモデルをあれこれ見たかったのだが、私はフランス人形をみたがったので、友だちは気味悪がり、あとで学校で「鈴木君はスケベだ」と言いふらした。
高学年の家庭科で刺繍をやったときは楽しかった。一生の仕事にしたいとすら思った。
中学生の時の座右の書は「赤毛のアン」であったし、高校時代は「ジュニア文芸」と「小説ジュニア」を読みふけっていた。
その後、「男性化」したのは、「体質」が変化したのではなく、たんに世間の圧力のせいである。
だから、じゅうぶん入会資格があると思う。」

もちろん鈴木先生は会員第一号である。(当然、私が会長である。こういうのは「カミングアウトのプライオリティ」で決めてよいのである。いいですよね、鈴木先生?)
それに対する私の熱い返信もペーストしましょう。

「鈴木先生
さっそく先生を「エゴの会」の第一号会員に認定させていただきます。カミングアウトありがとうございました。
実は私も「刺繍」が好きで、小学校の五年生の家庭科で刺繍をやるときにあまりに夢中になってしまって、母親から「ふーん、そういうの好きなんだ」と言われて、ちょっとたじろいだ記憶があります。(いまでも裁縫はだいすきです。ウイスキーなんかのみながら合気道の道衣のほころびなんか繕っていると、なんだかしあわせです。)
人形はさすがに家にはなかったのですけれど、紙でできた「着せ替え人形」が好きで、女の子の紙型にいろいろな服を着せたり靴を履かせたりしてるんるんしていましたが、これも無言の抑圧によりいつのまにか止めてしまいました。
小学校のころの愛読書は『赤毛のアン』と『若草物語』と『小公女』。とくに『若草物語』が大好きで、ローリーにすごく感情移入して読んだ記憶があります。(だからいまでも「誕生日のプレゼント何がいい?」と聞かれると反射的に「靴の紐」と答えてしまうのです。これはローリーが質問するほうなんですけどね)
ローリーは女の子にかこまれて、ほとんど「少女化して」暮らしているわけですが、これが私にとっては「至福の少年期」のすがたでした。
だから私の最初のロールモデルは彼です。(『アン』のギルバートはちょっとワイルドすぎますから)
でもぜんぜんいないんですよ、少年時代のアイドルが『若草物語』のローリーだったなんてやつが。(どうしてなんでしょうね・・・)
ともあれ、「もと少女おじさん」という新たなカテゴリーはかならずや硬直化したジェンダー言説に風穴をあけてくれることでしょう。
私たちが「男装した少女」であるとすれば、上野千鶴子は「女装したおっさん」ですね。
あら、「女装した家父長制」ってあんたのことやん!」

ま、それはさておき。
というわけで、「エゴの会」は発足と同時にいきなり強力な会員を獲得したのである。
喜ばしいことである。
今後、石川先生が「実は、リカちゃん人形のコレクターで」とか、難波江先生が「ふふふ、私のワードローブはヨシエ・イナバ」とか(これはちょっと別傾向であるが)続々とカミングアウトしてくれると私としてはすごく心強いのである。
ただ、悲しいことは、おじさんになって、「わし、も、どーでもえーけんね」の境地に達しないと「ぼく、子どもの時に少女だったんです」みたいなことをカミングアウトできない、ということである。
私たちはいつだって、決定的な仕方で失ったあとになってしか「失われたもの」について語れないのである。

というようなことをダイエーで買ってきたジャージ(¥3,980)の上に「どてら」を羽織って、「焼酎のお湯割り」を呑みつつ書いているわけですよ。「もと少女」は。