2月1日

2001-02-01 jeudi

あ、もう二月になってしまった。早いなあ。
最近、新聞の折り込み広告の不動産のチラシをよく読む。
べつに家を買う予定があるわけではない。(私は賃貸主義者である)
安いから、おどろいて見ているのである。
うちのマンション(3LDK、80平米、築10年)が売りに出ていた。2480万円である。
私はバブルの全盛期に東京で暮らしていたので、そのころの相場をまだおぼえているが、2500万円というのは都心のワンルームの価格であった。いま私が住んでいる程度のマンションだと新築で6000万円くらいした。
広告を見ると、ちょっと古い2DKだと、もう980万円とかそういう値段である。
うちは来月で娘が東京に去り、私はこれからどんどん家具、書籍、衣類などを捨てて、「草庵」暮らしになる予定なので、次に引っ越すときは2DKか大きめの1LDKで十分である。
これくらいの値段なら私にも買えそうである。
でも買わない。
私は家を持たない主義である。
というのは、家というのは自動車と同じで一種の「拡大自我」だからである。
私はこれ以上自我を拡大したくないのである。
それはなぜか。
自分の自動車を傷つけられると「むかっ」とするでしょう?
でも自分の「耕耘機」に多少のスクラッチが入っても別に気にならない。(たぶんね、耕耘機を所有したことがないので想像であるが)
それは自動車は「自我の延長」だけれど、耕耘機は「自我の延長」ではないからである。
私たちは自動車とかバイクを選ぶときに、けっこう真剣になる。
それはそこに自分の「対外的イメージ」を託しているからである。

私はこれまで自動車はホンダ・シティ、ローバー・ミニ、スバル・レガシー、スバル・インプレッサWRXという遍歴をしてきた。
バイクはヤマハRD50、ヤマハDT125、ヤマハGX250、ホンダGL400ゴールドウイング、ヤマハXT250、ホンダGB250クラブマン、ヤマハTW200という車歴である。

ご覧になると分かるように(バイクはちょっと分かりにくいかも知れないけれど)、ここには明らかにある種の傾向が見て取れる。(ちょっと「ラインから外れてる」のはレガシーとゴールドウイングであるが、これはどちらも事情があって引き取ったもので、私が自分で選んで買ったわけではない。)

それ以外のラインナップを一瞥すれば、私の「理想我」がこの選択に反映している、ということがよくわかる。
それは「タイニイで、お洒落で、機敏」ということである。
「重厚で、ゴージャスで、シック」(私とは無縁の自我像)とか「軽薄で、チープで、凶暴」(私がそこから目を逸らそうとしている自我像)は周到にここから排除されている。

ことほどさように、私たちは「自分のもちもの」に自我の理想を託している。
だから、自動車やバイクに傷をつけられると、わがことのように逆上するのである。
しかるに、私はそういうことにそろそろうんざりしてきた。
自我の拡大なんか止めよう、と思うようになったのである。

自我の拡大の最たるものは「子ども」であるが、私は育児の過程のどこかで、「子どもは私の一部分であり、私の夢であり、未来である」という考え方を棄てた。
別に深い思索の末にそうなったのではない。
ある日、急に「あ、もうやめよう、そういうのは」と思ったのである。
自分以外の何かを所有し、所有したもので自我の存在証明をさせたり、欲望充足を願ったりするのはもう止めよう、と思ったのである。

「だって、他人だし」

そうであれば、自動車やバイクだって当然「他人」である。
多少傷がいっても、「あら、お気の毒」とは思うけれど、自分の身体がきしむような痛みを感じることはもうない。

で、家の話。
家は「子ども」とともに拡大自我を最もあらわに表象する。
だから、壁が結露すれば、「ああ、家が痛む」と涙を流し、床に煙草の焼けこげをつくれば「ああ、家が痛む」と身もだえする、というようなことがおきるのである。
私はそれがいやなのである。
どうせ家は痛むに決まっている。
住んでいるうちに家がどんどんきれいになって、ますます整理整頓されてゆく、ということはエントロピーの法則からしてありえない。
つまり、家を持つということは、どんどん壊れ、どんどん汚れてゆく「自我」と直面して生きて行く、ということである。
なんか気分悪そうである。
私はだから賃貸主義者である。
もちろん、きちんと掃除をしてけっこうきれいに使ってはいるが、それでも家は痛むし、汚れる。でも、私はそれを何とも思わない。

「だって、他人のものだし」

自我はできるだけコンパクトな方がいい、と私は思う。
守るべきものや気遣いしなければいけないものをたくさん抱え込むことによって、私たちは結局、「ほんとうに」守るべきものや気遣いしなければならないものに出会ったときに、身動きならないことになっている、ということはないのだろうか。
そんな気がする。

ついでに言うと、私は「資産」というものはすべからく「ポータブル」である方がいいと思っている。
「ポータブル」というのは別にダイヤモンドとか株券とかなら「持ち運びに便利」というような意味ではない。(そんなものはすぐになくしたり、騙し取られたりする。)

なくしようがないし、盗まれようがない「資産」とは「スキル」と「情報」と「ネットワーク」のことである。

「魚」は食べればなくなるし、食べなければ腐ってしまうが、「魚を獲る技術」と「魚のありかについての情報」と「人的つながり」があれば「魚」はいつでも繰り返し資産化される。
哲学的な言い方をすれば「魚」とは資産の「ノエマ的側面」であり、「魚を獲る技術」とは資産の「ノエシス的側面」である。「であること」と「すること」と言いかえてもいい。「痕跡」と「生成」と言ったっていい。
私はなんであれ、ものごとの「生成的側面」が好きなのであるが、それはべつにたいそうな理由があるわけではなく、単にそっちのほうが「軽くて持ち運びに便利」だからなのである。

そういう点で私はウェブサイトというのは資産の形態としてたいへんすぐれたものであると思っている。賃貸どころか、「ブツ」そのものがデジタルな幻想なんだから。
2メガバイトのこのテクストファイルも、ファイルマネージャーでキーを一回押せば、一瞬で全部消えて跡形もなくなる。
それに、「こびとさん」がいつもお掃除してくれているので、エントロピーの法則に反して、どんどんきれいになって、どんどん整理整頓されてゆく。
今のところ、これが私の文字通りの「ホーム」なのである。