1月29日

2001-01-29 lundi

くらもち・ふさこの『天然コケッコー』が完結した。
るんちゃんに借りて、単行本の8巻から14巻まで読み通す。
いやー。面白い。それに、なんて巧いんだろう。
こういうのって文学でも映画でも表現できない、漫画の独壇場だと思う。
少女マンガの技術の高さと志の高さに感動。
私は少女マンガ好きである。
ご案内の通り、私は人生の重要な知恵の大半を『エースをねらえ』から学んだわけであるが、その他にも山岸涼子、大島弓子、吉田秋生、川原泉、桑田乃梨子などから人生について多くを学ばせていただいた。
なぜ私は「少女マンガ」からは叡智を学び、「少年マンガ」は娯楽として消費して過ごしてきたのか、それについて今日は考えてみたい。

少女マンガの私による定義は「少女(あるいはゲイ・オリエンテッドな少年)が主人公」ということである。(だから『日出ずる処の天子』も『風と木の詩』も『パタリロ』も「少女マンガ」と呼んで構わないのである。)
さて、私が少女マンガ好きであるのは、もちろん主人公に感情移入できるからである。
しかるに、私はゲイではない。
ということは、結論は一つしかない。
そう、私は「少女」だったのである。
まあ、そう驚くことはない。
たしかに私はいまでは翳りある初老の男であるが、それでも少年時代というものはあり、そのころ私は丸顔でころころした可愛い男の子であったのである。
そして、私は女の子が大好きだった。
正確に言うと、「男の子が嫌い」だったのである。
小学校の低学年のころ、私は男の子が嫌いであった。
だって、がさつで鈍感でバカなんだもん。
私は男の子たちの遊びにあまり興味がなかった。(野球は嫌いだったし、防空壕にもぐったり、高い木の上に登ったりするのは恐かった。)
それより、女の子たちとお家の中で人形遊びをしたり、トランプしたり、本を読んだりしているほうがずっと楽しかった。
私はクラスでいちばん可愛い女の子たち四人とすぐに仲良くなって、毎日その女の子たちと手をつないで学校から帰った。
放課後も休みの日もいつでも私は女の子たちに囲まれて過ごしていた。(プルーストみたいだな)
しかし、幸福はながくは続かない。
女の子たちはやがて私を「同類」ではなく、「異性」として見るようになった。(女の子の方が成長が早いんだね。)
そしてある日「ウチダ君は私たちの中で誰がいちばん好きなの? はっきりして」という恐るべき言葉が私に向けられた。
どうして、そのような問いに答えられよう。あのね、ぼくは君たちみんなが好きなんだよ。
だが、それは許されない選択であった。
私はやむなくその中でいちばんおとなしい子を指さした。そしたら、みんなは怒って去っていった。(指さした子も含めてね、もちろん。)
こうして、私の短い「少女時代」は終わってしまったのである。
その後、私はしかたなく「面白味のない優等生」とか「バカ不良高校生」とか「ボンクラ大学生」とか、いろいろのキャラを演じ分けつつ青春を過ごしたわけであるが、「少女だったころ」の胸ときめくような思いは二度と感じられなかったのである。
そして、幾星霜。
いかなる天の配剤か、私は離婚して娘と二人の母子家庭(といって良いでしょう、ウチの場合は)になり、同時に女子大の文学部の教師というものになってしまった。
つまり、朝から晩まで女の子に取り囲まれて、女の子の聴く音楽を聴き、女の子の好きなTVを見て、女の子を相手におしゃべりをしているのである。
これはある種の男性にとっては悪夢であろうが、私にとってはいま蘇る「夢の少女時代」なのである。これぞ「天職」といって過言でないであろう。
それに、私の本質が「少女」である、ということにすると、たしかにいろいろなことのつじつまが合う。
私は競馬競輪パチンコ麻雀ゴルフなどというものをやらない。バーとか待合とかキャバクラとかいうところにも行かない。『週刊文春』とか『フォーカス』とか『ナンバー』と『Navi』とか『日経』とか読まない。オーディオにもパソコンにもバイクにもカメラにも鉄道にも天文学にも興味がない。
その代わり、小説を読んで、美味しいものを食べて、映画を見て、おしゃべりをして、ドライブをして、旅行をして、テラスで昼寝をして、海辺のバーでピナコラーダを飲んで、パーティをやるのが好きである。
初夏の朝などはエプロンをしてベランダの観葉植物に水をやり、ビーチボーイズを聴きながら珈琲をいれて、「ああ、きょうはなんて気持のいいお洗濯日和!」なんて呟いている。
これは「ふつうのおじさん」の好尚とはかなり趣を異にしている。
だから、話は冒頭に戻るのであるが、くらもち・ふさこを読んでいちばんびっくりしたのは、主人公の少女「そよちゃん」の気持が痛いようにぴしぴし伝わってくるということではなくて、「そよちゃん」のボーイフレンドである「大沢君」の気持が「まったく理解できない」ということなのである。
それだけではない。「そよちゃん」のお父さんも、おじいさんも、シゲさんも、宇佐美君も、松田先生も、およそこのマンガに出てくる「ふつうの男たち」たちの一人として私はその思考回路や感情の構造が「読めない」のである。
いや、「こう言われたら、こう反応する」というインプット、アウトプットは分かるのだが「どうして、そういう反応をするのか?」という思考の原理部分は完全にブラックボックスなのである。
その反対に、いかにも理不尽で、非論理的な「田中」や「遠山」といった怪しげな少女たちの頭の中身は私にはもう哀しいほどに「透けて見える」のである。
それはもちろん「マンガの魔力」ということもあるだろう。くらもち・ふさこの「少女造形力」の素晴らしさの効果なのでもあろうが、それにしても。
くらもち・ふさこが素晴らしい漫画家である、という当たり前の結論より、私としては「私は実は少女だった」という仮説の方が面白い。
だって、こっちの方が面白いんだもん!(って、すでに・・・)
うむ,なんだかこれで行けそうな気がしてきた。
今後、「実は私もむかし少女だったんです」ということを続々とカミングアウトするおじさんたちと結託して「元少女おじさん」(EGO=Ex-Girl Ojisan)の会というもの(ネーミングがいいね「エゴの会」)を立ち上げ、フェミニズムの人たちに対して「私たちを『ふつうのおじさん』といっしょにしないで!」と断固たる抗議の声をあげる、というようなことをしてはどうかと思う。