1月27日

2001-01-27 samedi

合気道部の来年度の幹部をどうするかで江口主将が頭を悩ませている。
部員は30人からいるので人材に不足はないはずなのであるが、新3年生に部員が一人しかおらず、その彼女も忙しくて主将の仕事に耐えられそうもないというのである。
「じゃあ、異例だけれど、四年生から主将を出してもらおうか。人材豊富だし」
と私は気楽に応じたのであるが、どうもそれも無理らしい。
就職活動に忙しくてクラブどころではないからである。
次年度の合気道部は5月に多田宏先生をお招きして「創部十周年記念講習会」というメイン・イベントがあり、その準備で3月4月はいろいろ忙しい。ところが、その春こそ就職活動のハイシーズンであり、新四年生たちはほとんど「三月ウサギ」状態になっているのである。
困ったなあ。
私自身は就職活動というものをしたことがないので、その感じがよく分からない。(教員公募には落ち続けたが、あれは「就職活動」というようなアクティヴな印象のものではない。どちらかといえば「当たりくじのほとんどない宝くじ」を買い続けるような気分のものである。)
本日の朝日新聞によると、就職に関する規制緩和によって、就職活動の早期化と二極化が進んでいるそうである。
早期化というのは、3年生の秋の段階(つまり実際に入社するより一年半も前に)「内々定」が出るようなケース。二極化(デバイド)というのは、例の「勝つものは勝ち続け、負けるものは負け続ける」というフィードバック原理のことである。
つまり、一流大学の卒業生には早々と内定が出る一方、三流大学の卒業生はリクルートスーツの膝に穴があくころになってもまだ決まらず、大企業にはどんどん人が集まるが中小企業にはぜんぜん人が来ないということである。
どちらもどうかと思う。
企業も学生も。
いまさら私が言うまでもないことだが、大学を卒業するのに要する能力と企業人としての社会的能力のあいだにはほとんど相関関係がない。大学が一流であろうと三流であろうと、クライアントやパートナーにとって仕事をするのが楽しい相手というのは要するに「フレンドリー」で「正直」で「公正」な人間である、ということに尽きる。英語がうまいとか、どこぞに「パイプ」があるとか、数字をそらで言えるとか、そういうことはほんとうに末梢的なことにすぎない。
今の世の中で「フレンドリー」で「正直」で「公正」な人間でありうるとしたら、それだけでたいしたものだと私は思う。
そして、どう考えてみても、大学というのはそのような人間的資質を涵養するための教育機関ではない。
だから、大学の偏差値を基準にサラリーマンの適性を判定するというのは、ほんとうに無意味なことだと思う。
大学の偏差値を基準にして企業が新人採用するのを止めたら、ずいぶん日本の教育は「ほっこり」したものになると思う。
「だがね、ウチダ君。大学の偏差値は客観的に測定可能であり、それは当人も先刻ご承知だ。それをもし人間性というようなものを査定の基準にした場合、採用されなかったということは『あんた人間としてダメなんだよ』と判定されたことにはならないかね。不採用という事態に直面したとき、『おれ、勉強しなかったからな、ハハハ』という総括と『おれ、人間的にカスだからな、ハハハ』という総括と、どちらが当人にとってよりダメイジングだろう?」
なるほど。
でも、いいんじゃないの。
むしろ、戦後55年間、日本では「客観的に測定可能」なもの(学歴とか年収とか人種とか門地とか)だけで人を判断してきて、そういうものを一切抜きにした裸の個人をつかまえて、きっぱりと「おまえは人間としてダメなんだよ」という査定をしなさすぎたんじゃないの?
それを避け続けてきたことの結果が、現状なのではないの?
きっぱりと言ってやろうよ。
「おまえは人間としてダメだ」って。
例えば、東京大学法学部を首席で出た兄ちゃんが、どこかの大企業の面接で、人事のおじさんに「あなたさ、勉強できたかもしれんけど、人間として未熟すぎるわ。使いものにならんのよ。幼稚園からやりなおしたら」と説教をかまされる、というようなことが頻発すれば、学生たちももう少し「人間的成長とは何か」について内省するようになるのではないか。
どうせ東大に行くようなタイプであれば、必ずや「では、どうやって人事のおやじを騙して、人間的に深みのある人間に見せるか?」ということを考えるに決まっているし、驚くべきことに、そのようなせこい工夫が人間的成長に資するところは少なくないのである。
誤解しないで欲しいが、私は「人間的に成熟している人間を採用せよ」と言っているのではない。「人間的に成熟しているように『見える』人間を採用せよ」と言っているのである。
「人間的に成熟しているように見せる」のはまるごと知的で技術的な問題であり、努力さえすれば誰にでもできる。
自分の意見をしっかりと述べることができ、他人の意見や感情をきちんと理解できる。あるいは他人との「間合い」をちゃんと取れるというコミュニケーションの基礎が出来ていれば、「人間的成熟」らしきものはオーラのごとくに発信されるものである。
求職者たちが『現代用語の基礎知識』を暗記するより、「人間的に成熟して見える」工夫に時間をかけるほうがよほど世の中は暮らしやすくなると私は思う。
求職者の「ディスカッション」の席で静かな微笑みを浮かべて、落ち着いた声で、ゆっくりと意見を語り、誰かが異論を述べると、にこやかにうなずき、率直に自分の誤りを認め、「いやあご賢察。あなたみたいな方こそ、本社にふさわしい人物ですね。ぼくなんか、とても及びません、ははは」と譲るような人物をこそ優先的に採用するようにしたら、会社はどうなるか。
あるいは重役面接で「ちょっと、申し上げてよろしいですか? 御社の営業戦略にはやはり致命的な誤りがあると思います。お気に障るかも知れませんが・・・失礼ながら当方で資料を用意しましたので、それをご覧になりながら、お聞き下さい」なんていう人を「うむ、これだ」と抜擢するようにしたら会社はどうなるか。
あるいは会社の前の横断歩道で老婆がよろよろしていたら「お、そこらへんで人事の担当者が見ているかもしれんぞ」と気を働かせて、「ああ、おばあさん、私が荷物を持ってあげましょう。たいへんですね、どちらまで? ふふふ」などと愛想を振りまいたりするようになるのではないか。
私はそういう想像をしているのである。(ちょっと気持悪いけど)
ともかく、そうでもしないと、永遠の日本の若者は成長する契機に出会えないと私は思う。
というわけで、私は「学歴による差別」には反対である。
しかし、大企業に殺到する学生も相当バカである。
「いま大企業」である企業のうちかなりは私が大学卒業のころは名前も知られていない会社であった。そして、その頃新卒学生を大量採用していた大企業のいくつかは今影も形もない。
昔は鉄鋼や造船やゼネコンにエリートが集まった。そのあとの時代には金融、証券に人が殺到した。そのあとには流通やマスコミに人が集まった。そのあと不動産とリゾート会社が受けまくった時期があり、やがてコンピュータと通信に人が集まった。鉄鋼や造船がどうなったか、ゼネコンがどうなったか不動産会社がどうなったか金融証券がどうなったか、百貨店がどうなったか考えて見れば(「ヒュームの法則」により)「いま大企業である」ということからは、「明日も大企業である」ことを演繹できないことは自明である。
「御社の将来性」を考えて会社を選ぶなら「今、大企業である」ということは、ほとんど「将来性がない」ということと同義である。
例えば、あいかわらずマスコミには数千倍というような倍率で求職者が殺到しているそうであるが、地上波テレビなんてあと5年先に存在するかどうかだって分からないのである。新聞社や出版社だって、あと10年後にいったいどういう形態で生き延びるられるのか、やってる当人たちだって分かってないのである。
もちろん「ある業界が壊滅してゆく現場を砂かぶりで見たい」というのであれば、お好きにどうぞ、というほかないが、「いま華やかな職場みたいだから」という理由で就職先を選んでいるなら、「朝三暮四」のサルと同程度の知性だと疑われても仕方がない。
就職希望の学生に私がいつも言うことがある。それは企業の知名度や資本金と「職場が楽しい」ことのあいだには何の関係もない、ということである。
責任感があって、勤務考課が公正で、仕事のできる上司がいて、愉快な仲間がいれば、どんな単純作業であっても仕事は楽しい。
逆に、無責任で不公平で仕事のできない上司と、感じの悪い同僚に囲まれていれば、どれほど「クリエイティヴ」で「先端的」で「ソフィスティケイトされた」仕事をしていても、ぜんぜん愉しくない。
私がこれまでした仕事の中でいちばん愉しかったものの一つは、アーバン創業期に、バイトの女の子たちとオフィスに座ってせこせこと「英文マニュアルの切り貼り」をしていたときである。
ずっと手は動かしているのだが、頭はほとんど使わない仕事であるので、FMラジオを聴き、ときどき珈琲をのみながらおしゃべりをし、お昼になったら渋谷の街にご飯を食べにでかけ、またラジオを聴きながらおしゃべりをして、午後5時になって仕事が終わるとよくみんなで連れだって芝居やコンサートに出かけた。
まるで知性も独創性も要さない仕事であったが、私は毎日、会社にゆくのが楽しみだった。
「毎日会社にゆくのが楽しみ」であるような仕事を選ぶと楽しいよ。
就職活動をしている人たちに言いたいのは、それだけである。