1月26日

2001-01-26 vendredi

「はげしく学び、はげしく遊ぶ」はわが畏友、レーニン主義経済学者であるところの石川 "わるもの" 康宏先生の座右の銘であり、私も衷心よりの共感をいだくわけであるが、私の場合はそこに「はげしく説教」が付け加わる。
これは同僚たちが必ずしもその教育事業のうちに優先的な責務として算入しないところの活動である。(私ほど説教の好きな人間はレアである。)
昨日も二時間ほど「はげしく説教」を行った。
精魂尽き果てて家路につきつつ、私のこの活動に注ぐ情熱はいったい何に由来するのかとしばし内省したのである。
愛情や善意からではない。
人が泣いたり苦しんだりしているのを見ても、私はほとんど情緒的な反応をしない。
泣いている人には「ティッシュ」を差し出し、苦しんでいる人に対してはできる範囲で苦しみの原因を除去すべく努力するが、それはどちらかといえば計量的な知性の活動であって、私の魂がその痛みや苦しみに共振しているわけではない。
私が苦しむ人に相対したときに集中する主題は、とりあえず苦しみを軽減する「対症療法」的な処置は何かという短期的な問いと、このように苦しむに至った歴史的・構造的な原因は何かというもう少し長期的な、いずれにせよ非情緒的な問いである。
そう考えると、私の「説教好き」は、「ひとはどのようにして苦境に立ち至り、どのようにしてそこから脱し得るのか」という人間学的な関心につよく惹かれているせいなのではないかと思われる。
私が「困っている人」に対して「慰藉」ではなく「説教」で応接するということは、おそらく私の人間観の根本に「人間は自分の不幸を自分で造形している」という思いこみがあるからだと考えられる。
苦しむ人に向けるもっとも効果的な慰藉の言葉は「この苦しみはあなたの責任ではない」というものである。
それはふつう、「ある邪悪な存在が、あなたの幸福の実現を阻害しているのである」という話型を採用する。
この場合の「邪悪な存在」は、「悪霊」でもいいし「資本主義社会」でもいいし「家父長制」でもいいし「宇宙人」でも、何でもいい。とにかく、ある邪悪にして強力な存在が、あなたの幸福の実現を阻み、あなたを苦しめているのだ、というかたちで本人をその不幸から免責するのが「慰藉の構造」である。
これはレヴィ=ストロースが『野生の思考』の冒頭で紹介している呪術医療の構造と本質的には変わらない。
その対極に「説教の構造」がある。
説教は、「あなたの不幸の原因のかなりの部分はあなた自身が育み、肥大化させたものである」という前提から出発する。
したがって、「説教者」は、あなたの苦境のどこからどこまでが「あなた自身の選択の結果」であり、どこからどこまでが「外的要因によるもの」であるかを腑分けし、「自己責任」部分について、「なんとかしろ」と指示し、「外的要因」部分については「そこから逃げろ」と指示するのである。
それが「説教」である。
不幸を構成するファクターには「何とかなるもの」と「どうにもならないもの」がある。
何とかなるものは何とかし、どうにもならないものはほおっておく。
すごく単純である。
すべてを外部要因におしつけて当人を免責する慰藉は甘い言葉でひとを無力にする。
同じように、すべてを自己責任に帰すような説明(「ぜんぶおまえが悪いんだ」)にもまた人は耐えることができない。
というわけで私は困っている人に向き合うと、ただちに「説教モード」に入ってしまうのである。
もちろん世の中の人の多くは説教より慰藉が好きである。
私は、自分の苦痛については、もちろん説教よりも慰藉を優先する。当然である。
もし非常につらいめにあったときに私自身はぜったいウチダにだけは会いに行かない。
だから、非常につらいめにあっているときに私に会いに来て、死ぬほど説教されてぼろぼろになったとしても、それはその人の「自己責任」であって断じて私のせいではない。