ああ、忙しい。今日締め切りの書評をようやく書き終えて、ファックスで「読書人」に送る。本は有田英也さんの『ふたつのナショナリズム』(みすず書房)
よい本である。
フランス革命から第一次世界大戦までのフランス・ユダヤ人社会の推移を追った思想史研究であるが、単なる通史的記述にとどまらず、「特異な宗教的、民族的個性をもった民族集団が、均質的な国民国家にどのようにして統合されてゆくか」というアクチュアルな難問に対する答えを著者自身が切実に求めている、その熱意が伝わってくる。
19世紀のフランスでは、フランス革命の結果出現した「均質的・標準的」な国家(ゲゼルシャフト)と、さまざまな社会階級、地方、宗教、エスニシティといった「中間的」な共同体(ゲマインシャフト)、そして個人的な欲望実現のために活動する私人が、公-共-私の三極構造体をなしていた。
ユダヤ共同体というエスニック・フループは公と私のあいだに介在する中間的共同体である。その機能は、私人を相互扶助組織のうちに保護して、その人権を守り、国家が強制する標準化・公民化への抵抗線として機能することにある。
一方、フランス国家は、エスニックな共同体がその宗教的・文化的なドクサを成員に強制して過度に自閉的になることを阻止し、私人がダイレクトに公共的空間で自己実現できるような解放の回路を保証する。
この公と共の相互規制によって、私人の権利はいわば二重に保証されるわけである。
具体的な例をあげて考えてみよう。
たとえば、私が日本を抜け出してフランスに移民し、パリの「日本人共同体」のメンバーになったとする。
その共同体のメンバーになると、私は「お正月」や「お節句」のような季節行事を同胞たちと守ったり、「カルチエ・ラタン神社」にお参りをしたり、「マドレーヌ能楽クラブ」で民族的な伝統芸能を学んだり、「フランス語ができない日本人移民のための会話教室」に通ったりすることができるし、「回転寿司・みかげ屋」を起業するに際しては同胞の資本家から資金供与を受けることもできる。
これらは、私が新たな祖国へ「軟着陸」することを可能にしてくれる貴重なサービスであり、かりに私が誰の助けも借りずに単身でフランス社会に同化しようとするときの苦労を思うと、まことにありがたいものである。
その一方で、共同体メンバーであることにはいろいろな面倒もある。
やれ、ウチダは「正月なのに注連飾りをしてない」とか「神社でお賽銭をあげなかった」とか「日本から来た森首相の邦人歓迎会に欠席した」とか「大和撫子ではなくフランス娘(ミッシェルね)とつきあっている」などなどとこうるさいこという隣人に囲まれているからである。
がまんの限界にきた私が「もう、うんざりだ。おれは日本からの移民であるよりもまず第一にフランス人である。『回転寿司みかげ屋』は『スシ・バール・コート・ド・チヌノウミ』に名称変更。ついでに改名してジャン=ピエールと名乗り、ミッシェルと結婚して、宗旨もカトリックに変更するぞ」というような場合、そのような私の信仰の自由、移動の自由、職業選択の自由などもろもろの基本的人権はフランス国家がこれを保証してくれて、共同体の介入を許さない。
なんだか具体例をあげたらよけいにわかりにくくなってしまったが、要するに共同体と国家がおたがいに領分を侵さないようにして、牽制しあっていると、私人はそのあいだをうまくバランスをとっていろいろな利益を共同体と国家の両方から引き出すことができるのである。
これを洗練させたのが「フランコ・ユダイスム」というシステムである。
ここではさらに「ユダヤ人共同体」の宗教的使命(メシアの来臨による地上的な正義の成就)とフランス革命の理想(人間が自由で威信ある生き方をできるための社会つくり)がわりと強引に重ね合わされ、「よきユダヤ人であること」がそのまま「よきフランス国民であること」とイコールであるように、ユダヤ共同体のエートスそのものが改鋳されたのである。
この公-共-私の三極構造体の理想は、実際にはドレフュス事件と第一次世界大戦時の国民国家のナショナリズムの高揚によって吹き飛ばされてしまうのであるが、著者の有田さんは、歴史的には短命だったこの脆弱な思想的構築物のうちに、日本社会の未来を望見するある種の可能性を見出しているように思われる。
それはエスニックグループの自律性を国民国家の均質性や標準性よりも優先するエスニック・ナショナリズムでもなく、「単一民族単一国家」という幻想をうたいあげる国民的ナショナリズムでもなく、その「手前」にあるものだ。
自律するエスニックグループと普遍性を標榜する国家が相互に干渉し合い、牽制し合い、私人の判断や行動において、一方の影響だけが支配的になることが結果的に防がれているような、デリケートな社会体制。
複数のファクターの「バランス」のうちに社会の健全さはある、という有田さんの発想に私は共感を覚える。
私は国家主義にも多文化主義にもどちらにも反対である。
エスニック・グループという中間組織に対するレスペクトを欠いた国民国家は、もはや効果的に身を守る抵抗線を持たない個人を巨大な「標準化メカニズム」のなかで粉々にすりつぶしてしまうだろう。そればかりか、国内に「異物」を認めない思考様式は、国外にも異物を認めない帝国主義的な排外主義に容易に転化するだろう。
国民国家という擬制に対するレスペクトを欠いたエスニック・アイデンティティの要求は、それが「ドミナントなエスニック・グループ」に対する異議申し立てであるあいだは相対的な健全さを維持しているが、排外主義的な民族本質論のしっぽをひきずっている限り、思想そのものとしては致命的な瑕疵があるだろう。(「ドミナントなエスニック・グループ」に対して「棄てろ」と要求しているエトノサントリスムをみずからには許しているからである。)
国家と国家内のエスニック・グループは相互に牽制し合うことによってのみ健全に機能しうる。
あらゆる社会システムはマイナス面をもつ。瑕疵なき社会システムというものは存在しない。だから、そんなものを求めてはならないのである。
国家には国家の悪があり、エスニック・グループにはエスニック・グループの悪がある。だから、その悪を何とか相殺することにしか私人の自由が保たれる領域を確保する方途はないのである。
私たちは社会システムについては、そのマイナス面がもたらす被害をどうやったら最小限に押さえ込むことができるか、という計量的な論点にのみ関心を限定すべきである。
「どうすればすばらしい社会ができるか?」というような論の立て方は、立て方そのものが間違っている。
「どうすれば、社会の中にある暴力的で不条理なファクターの影響を抑制することができるか?」というふうに論を立てるべきなのだ。
これは法的な発想である。
法律は「善行を積んだ人々に報償を与えて世の中をよくする」ためのシステムではなく、「悪行を行った人々のもたらす被害をくい止め、世の中をこれ以上悪くしない」ためのシステムである。
社会理論はすべからく法的発想に基づいて語り出されるべきであると私は思う。
そして「あるべき社会」について語るときは、有田さんがそうであるように、小さな声で、自信なげに、相手の顔色をうかがいながら語るのが「おとなのマナー」である、と私は思う。
し、しまった。書評を一本書いたあとに、また一本書いてしまった。
これでは仕事をいくらやっても暇にならないはずである。
(2001-01-19 01:00)