1月16日

2001-01-16 mardi

大学院の演習の最終回。
「日本文化論・論」と銘打って始めた授業。当初の予定ではリアルタイムの日本文化論から読み始めて、時間を遡行して、ルース・ベネディクトの『菊と刀』で締めるはずだったのだが、そこまでたどりつかないうちに時間切れとなってしまった。
最後の本は土居健郎の『「甘え」の構造』(1969)。
「いまさら、『甘えの構造』ですか?」と驚く方がいるかもしれないが、世に名著といわれるものは、いつ読んでも得るところが多いからよいのである。
土居の言う「甘え」とは、「場の親密性をすべてに優先させるような関係のつくりかた」のことである。土居はそれを日本社会が継承してきた一種の「生活の知恵」というふうに肯定的にとらえている。
私も土居とだいたい同じ意見である。
「場の親密性」をすべてに優先させる関係のつくり方は社会的な機能としてはなかなかすぐれている、と私は考えている。
なぜか。
原則的な話をしよう。
ルーレットで、つねに同じ番号にチップを置く人は、確率的には、いつか必ず当てる。
毎回ランダムに番号を変える人は、永遠に外し続ける可能性がある。
(これは麻雀をやっているとよくわかる。競馬でも同じかも知れない。)
(注:と書いたら、読者の方から「ルーレットの場合は違います」というご指摘を頂いた。どちらも同じ確率なのだそうである。そ、そうだったのか。知らなかった・・・・ということは、ジャンケンでいつも「ぐー」を出す人は永遠に負け続けるということか・・・それは当たり前か。要するに私は確率のことがまるで分かってないということですね。失礼しました。高校にちゃんと行っとけばよかった。)
「プリンシプルを持っている」ということは、どのような場合でも「プリンシプルを持っていない」ことよりも、有利である。
迷路に紛れ込んだ場合は、右手(あるいは左手)を壁から離さないように進めば、(どれほど時間がかかっても)必ず出口にたどりつくのと同じである。
「場の親密性」を最優先する人間には迷いがない。
「節義」でも「忠君」でも「男女の愛」でも「師恩」でも、私と(とりあえず一番近しい)誰かとの「あいだのつながり」が何よりも重要である、と思い定めた人間は腰がふらつかない。
「忠たらんと欲すれば孝ならず」とか「義理と人情をはかりにかけりゃ」とか「あちらを立てればこちらが立たず」とか、腰が決まらずにふらふらしていると、「期間限定的」なオプションの場合は、時間切れゲームオーバーということになる。
『エイリアン2』においてリプリーが最終的に勝利するのは、逡巡なく「娘」の救出に向かったからである。
「『娘』を助けにいったものだろうか、それともわが身の安全をはかったものだろうか、偵察隊としての軍事的任務を全うすべきだろうか、エイリアンの殲滅を最優先すべきだろうか、負傷者たちの介護をまずなすべきだろうか・・・」とリプリーが思い悩んだら、ゲームオーバーである。
選択肢が複数あり、そのいずれもが緊急であり、いずれにも妥当性があるような場合には、「ためらわない人間」の方が「ためらう人間」より生き残るチャンスが高い。少なくともストレスは少ない。
また、「甘える」人間はつねに「場の親密性」を最優先するのであるから、どのような状況においても、その判断と行動が予測可能である。
そして、「予測可能」な人とは(集団的な水準で言うと)「統制可能」な人ということである。
真に反社会的な人間というのは、その行動が余人には予測困難な人間のことである。(スターリンやヒトラーや金正日はあきらかに「反社会的な人間」であると私は思う。)
総じて、「その行動が予測可能な人間」は、「その行動が予測困難な人間」よりも、集団の運営にとって無害である。
人間は、どのようなプリンシプルに基づいて生きてもよい、と私は考えている。そのプリンシプルが明快でありさえすれば、そのような人間は他者から見て「交渉可能」「統制可能」だからである。
みずからを他者に向けてあえて「統制可能態」として曝露すること、それを私は「コミュニカティヴな態度」と呼ぶ。
そう言いたければ「愛」と呼んだって構わない。
「私って、ほら、こんなに分かりやすいでしょ? 何考えてるかすぐ分かるし、次に何をするか予測できるし。だからその気になれば好きなように引きずり回せるでしょ?」
というふうに他者に向けて我が身を「統制可能態」において差し出す人間を私は社会性の高い人間である、と見なしている。
たとえばヤクザというのは、見るからにヤクザらしい格好をしている。
「私はヤクザですから、カタギのひとはあまりお近づきになったりしないようにご注意下さい」というふうに危険信号を発信して、人々が回避行動をする余裕を与えつつ街角を徘徊する、というのはかなりコミュニカティヴな態度である、と私は思う。
電通の営業マンみたいな格好のヤクザとか、大学の教師みたいな言葉遣いのヤクザがいたら、困る。不用意に足を踏んだりする可能性が高くて、たいへんに危険である。
森首相は石川県の「県益」を最優先して政策決定をしていると朝日新聞は報道していた。
これは為政者としては困ったことであるが、よい点もある。
というのは「石川県との場の親密性」を最優先する、というその「甘えた」政治姿勢のおかげで彼の政治的行動はほぼ完全に予測可能だからである。
株価の低迷も、円の急落も、経済の不振も、すべて「予見可能」であり、そして、「予見可能」であるということは、「回避可能」でもあるということである。
それゆえ、メディアの批判的論調にもかかわらず、日本の政治の未来に「不透明性」を感じて怯えている人はいない。(あまりに「透明」なので、うんざりしているだけである。)
これは逆説的な意味で「政治の安定」「通貨の安定」「体制の安定」と言えるのではないか。
私がいいたいのは、どうすれば人間はより communicative でありうるか、(言いかえれば sociable でありうるか)という問いを社会行動における優先的な関心事とするような人間のことを「甘えた人間」と呼ぶのであれば、「甘えた人間」は「社会人」としてなかなか適格性が高い、ということである。
ただ付け加えて言うならば、私の見るところ、「甘え」にはグラデーションがあって、「幼児的・全方位的な甘え」から始まって「人見知り的・選択的な甘え」、「功利的・政治的甘え」と程度が進んで行くように思われる。
私は現在(集団全体を統制するために個々の場の親密性を最大限利用することを目指す)「功利的・政治的甘え」の段階にいる。(これは60年代に「ブント的組織戦術」と呼ばれたものに酷似している。「それでね、革命党の地下軍事組織をどう編制するかという問題なんだけどさ。ま、いいからそれぐっと干してよ。おばちゃん! あと生三つと厚揚げと煮込み大盛りね。でさ、ここはガンといきたいわけよ。おれらとしては、ガンと。で、君を男と見込んで頼みがあるんだけどさ・・・」)
今後はこの境域を脱し、さらに精進を重ねて、「万象帰一・自他一如」の究極の甘えの境地(これはボケ老人のありように酷似している)にたどりつきたいものだと思っている。