今日は卒論提出日である。
うちのゼミでは11名が卒論を書いている。それぞれの決定稿を提出前に読む。
日曜一日使って卒論9名分を読んだら、ちょっと疲れた。
論文そのもののレヴェルはみんな平均以上である。中には非常に優れたものもある。
世の中には「言っていることがすらすらよく分かる」論文と、「よくよく読み込まないと、何を言っているのか分からない」論文がある。
「すらすら論文」では、そのひとの言葉とその人の思考がかみ合っている。
「思い」がその人の体感に近い「言葉」を見出していると、文章は読みやすい。
「思い」と「言葉」が乖離していると、どれほど思想が深遠でも、どれほど言葉が巧みでも、言葉は届かない。
竹内敏晴さんは「声が届く」かどうかは声の強弱とは関係ないと書いている。
どんなに声の大きい人に呼びかけられても「声が届かない」ということがある。逆に、どんなにかすかな声でも「声が届く」ことがある。
それは「伝えたい」という思いの強さが声に「響き」を与えるからなのである。
るんちゃんが小さい頃、真夜中に発熱したことがある。そのとき、かすれ声で小さく「お父さん」とつぶやいただけで、私は二枚の扉越しにそれを聞きつけて跳ね起きた。どれほどかぼそい声であっても、その声が切実に私を求めているのであれば、その声は私を熟睡からたたき起こすほどの「轟音」として耳に届くのである。
どんな人でも、切実に伝えたい思いがあれば、その言葉は「響き」をたたえる。
今年の卒業論文の中にもいくつか「響き」のよいものがあった。
書いている人が読み手に対して「分かって欲しい」という切実な気持ちをもって書いているかぎり、かならず文章は「響き」を帯びる。
それが「すらすら読める論文」である。
学生諸君にぜひ知っておいて欲しいのは、「何を語るか」ではなく「どのように語るか」の方がずっとずっと大事なことだ、ということである。
「語られた言葉」よりも「語り口」の方に、より多くの情報が含まれている。
オードリー・ヘプバーンとケイリー・グラント主演の『シャレード』というサスペンス・コメディがある。
死者の残した財宝の行方を探す物語である。
「死者はどこにだいじなものを隠したのか?」というふうに問いを立てるものは宝を見つけることができない。
「死者は誰にだいじなものを託したかったのか?」というふうに問いを立てたものが宝を見つける。
「メッセージは何か」ではなく、「メッセージは誰に宛てられているのか」の方が、「何が隠されているか」ではなく「誰に向けて発信されている」の方がより根元的な問いなのだ、ということをこの映画は教えてくれる。
来年論文を書く学生諸君もよくこのことを念頭において欲しい。
「私はこの論文を誰に宛てて書いているのか?」
この問いを念頭においていれば、踏み迷ったときに、それが正しい航路を示してくれる灯台になると私は思う。
ほら、分かりやすいでしょ。
このメッセージは「現3年生のゼミ生諸君に宛てて」書かれている「論文の書き方ガイド」なんだけれど、宛先がはっきりしていると、宛先以外の人が読んでも「すらすら」分かるのだよ。ね?
(2001-01-15 00:00)