1月10日

2001-01-10 mercredi

とうとう学校が始まってしまった。
学生さんたちを相手にして授業をすることは私にとってはたいへんに楽しいことであって、いささかも苦痛ではないのであるが、ルーティンが始まると、それ以外の仕事はぜんぜんできなくなるのがちょっとつらい。
そのわずかな時間を按配して、レヴィナス論をどうあっても4月までに脱稿しなければならない。(じゃないと、博士後期課程の文部省認可申請に間に合わない。)そういう世俗的な動機で論文を仕上げてしまうのはあまりよいことではないけれど、そうでもしないと永遠に終わりそうもない。
いずれにせよ、私のすでにひろく人の知るところとなっているバカ頭の中身をあらためて満天下にさらすというだけのことなのであるので、それによって私の学術的な業績についての評価が一気に下がるとか、人々の私に向ける視線がさらにとげとげしくなる、ということは(すでに十分に「とげとげしい」ので)ありえない、という点が気楽である。

最近、つぎつぎとレヴィナス論が出版されている。(私もひとつ翻訳した。)
理由のひとつには、レヴィナス老師の思想史的なポジションが判明になってきて、「アプローチしやすく」なったということもあるだろう。それはたしかによいことであるのだが、そのようにして老師の知見が「教科書化」されて、オリジナル・テクストを読まないままに「理解」されてしまうことはあまりよいことではない。
レヴィナスは読み手が身銭を切って読まないとその真の相貌を現さない。
逆に言えば、レヴィナス老師の本を必死になって読むと、誰でもレヴィナスについて論文が書きたくなる。
この不思議な現象をコリン・デイヴィスは「レヴィナス効果」と名付けた。
読む人は、レヴィナス老師が「自分にだけ世界の成り立ちについてこっそり教えてくれている」ような幸福な錯覚にとらわれてしまうのである。(こういうインティメイトな感覚を与えてくれる書き手は作家を含めて希有である。)
だから、私のレヴィナス論は「私のレヴィナス」論(「私はいかにしてレヴィナス老師に出会い、老師は私に何を告げたか」をめぐる物語)であり、読者は、これを読むと私のことはよく分かるが、レヴィナスのことはあまり分からないという仕掛けになっている。
それは他の研究者の書いたレヴィナス論についても同じである。みんなそれとは知らずに「自分とレヴィナスの出会いについて」書いているのである。だから、レヴィナス論がどんどん出版されるのである。
これはたいへんよいことである、と私は思う。
出会ったあと、その経緯について語りたくなるような人。読んだあと、それについての解釈本を書きたくなるような書物。それはプレグナントな出会いである。
どのレヴィナス論がいちばん解釈が妥当であるか、とか資料が網羅的であるかとか、そういうことに私はあまり興味がない。
レヴィナスとの出会いをつうじて自分の中に生じた変容を適切な仕方で記述しえているかどうか、それを指標に私はレヴィナス論を読んでいる。
それは「それまでなかったものがそこに生成した瞬間の経験」について語ろうとする言葉、自分の手持ちの語彙では語り切ることのできない経験について語ろうとする言葉だけが帯びるある種の「切迫」を私が深く愛しているからである。