世間はクリスマスである。
私は娘がはやばやと東京へ去り、合気道の納会も、恒例のすす払いも終了し、美しく静まり返った家で、お仕事三昧、読書三昧、音楽三昧、美食三昧の日々である。
むかしはクリスマスには女の子とデートをしていた。
私はそういうときにはちゃんとしたレストランで食事をして、それなりのプレゼントをさし上げて、タクシーでおうちまで送るという「女の子からすれば、たいへん好都合な男」であった。
そのせいか、私は若い頃、けっこうもてた。
奢ってくれて、貢いでくれて、呼べば飛んできて、不要なときはほっておいても怒らない、しかも別れてもあとくされがなくて、学校やバイト先で会ってもにこにこしている。
女の子にしてみれば理想的に「好都合な男」なんだもの。
これでもてないはずがない。
しかし、このように達観するまでにはいろいろと苦難もあったのである。
高校生のころまでは「とにかくしつこくつきまとう」のが愛情表現だと思っていた。
しかし、どういうわけか、しつこくつきまとって好きだ好きだ好きだとわめきちらすと、すべての女の子は走って逃げてしまうのである。
これはまずい。
こういうときに発想の切り替えが早いのが私の取り柄である。
私は問いを反転したのである。
どのようなガールフレンドを私は理想としているか?
こちらの都合のいいときにはいつでも遊んでくれるが、こちらの行動には不干渉で、こまめにプレゼントをくれて、気持ちがさめたらあっさり身を引いてくれて、そのあと会ってもにこにこしてくれる女の子、それこそ私が求めるその人であることは贅言を要さない。
なんだ、それを逆にすればいいんじゃないか。
私は目からウロコが落ちた。
私がしてほしいことを相手にしてあげればよいのである。
20歳くらいのときにエリック・シーガルという人の『ラブストーリー』という恋愛小説とその映画化が大ヒットしたことがあった。
前にも書いたことがあるが、そのときのキャッチフレーズが
Love is never to say sorry.
というのである。
これを配給会社は「愛とは後悔しないこと」と訳した。
「愛とは後悔しないこと」では、「とにかく後先考えずに情熱に身を任せて突っ走れ」というふうに誰でも理解するだろう。
しかし、意味はまったく違うのである。
この台詞は、身分違いの貧家の娘と結婚した息子を勘当にした大富豪の父親が、夭逝したその娘の葬儀のときに数年ぶりにあった息子に、お悔やみとともに、「I'm sorry」と言うのに対して、息子が顔も見ずに返す言葉なのである。
「もし、あなたが私を愛していたのであれば、あとになって『すまぬ』などと言うような行為をするはずがない。つまり、あなたは息子である私を昔もいまも愛してなどいないのである」という、これは絶縁の言葉なのである。
「愛」というのは、あとで「ごめん」といわねばならないような仕儀に立ち入らないように、一瞬たりとも気を緩めないほどにはりつめた対人関係のことである、ということを私はこのとき学んで、「おおお」と目からウロコを落としたのである。
「愛する」とういうのは「相手の努力で私が快適になる」ような人間関係のことではなく、「私の努力で相手が快適になる」ような人間関係のことなのである。
ところがこれを逆にとっている人が多い。
「愛」が好きな人たちは、もっぱら「自分にとっては快楽であるが、相手にとっては迷惑なこと」を選択的に相手にむかってする傾向にある。そればかりか、その迷惑に相手が耐えることを「愛のあかし」などと呼ぶのである。
困ったものである。
(2000-12-25 00:00)