12月22日

2000-12-22 vendredi

田口ランディの『コンセント』と『アンテナ』を続けて読んだ。
ちょっと前に鈴木晶先生もこの二冊を続けて読んでいて、感想文を「電悩日記」に掲載されていた。(たぶん同じころに本を買って、同じ頃に読んでいたのであろう。あまりにそういうことが多いのでもう驚かなくなった。)
その鈴木先生の解釈がたいへん面白かったので、それをご紹介しよう。

「先日、田口ランディの本をたてつづけに2冊読んだ、と書いたが、2冊とも要するに「二つの死」の話であった。
これはラカンが書いている(セミネールだから「話している」?)ことで、ジジェクが明快に解説していることだが、人間には生物学的な死と象徴的な死とがある。前者については、あらためて説明する必要はないだろう。後者は、わかりやすくいえば、自分がある人間の死を受け入れる、ということである。そのために人間は葬式というものをやる。象徴的にも死んだ人間を、昔は「成仏した」と言っていた。
この発想は西洋でも同じらしい。いちばんわかりやすい例はデミ・ムーア主演の『ゴースト』とうい映画だろう。デミ・ムーアの夫は暴漢に刺されて死んでしまうが、妻を愛するあまり、「成仏」できない。最後に、天から降ってきた光のなかへと消えていく。『シックス・センス』も同じような発想にもとづいている。成仏できない死者を、地縛霊と呼んでいるが、これはつまり生物学的には死んでいるが、象徴的には死んでいない死者のことである。典型的なのがゾンビだ。バレエの世界にも『ジゼル』に出てくるヴィリという有名な例=霊がある。
人間は二度死ななくてはならないのである。二度死ななかった者は「たたり」をもたらす。
キューブラー=ロスは重要なことを書いている。死に瀕している病人に対して、嘘をついて「きっとよくなるから頑張って」と言ってはいけないというのである。そう言われて、快復を信じたまま死んでしまうと、その人は死への準備ができていないために、この世に「やり残しの仕事」をおいていってしまうことになる。幸せな死とは、やり残した仕事を片付け、死を受け入れる準備ができている人の死なのだ、とキューブラー=ロスはいっている。」

私は鈴木先生とまったく同意見である。
ひとの解釈を読んだあとで「同意見」と言っても、「なんだ、まねっこじゃん」といわれそうであるが、同意見なものはしかたがない。
人間は二度死ななければならない。
生物学的な死つまり死者にとっての死と「喪の作業」つまり生者にとっての死のふたつである。
「喪」を経由しない死者は死んでいるが生きている。
「喪」を拒否された死者が生き続け、その「祟り」を怖れた人々が、「喪」を拒否した親族を殺して決着をつける、という話がある。ホラー映画みたいだけれど、カミュの『異邦人』というのはそういう話である。
田口ランディの小説はふたつとも近親者が「死んでいるが死んでいない」状態をどうやって「喪」の作業にまで持ち込むかをドラマの緯糸にした、「祟り」を鎮める物語である。
ただし、『コンセント』はわりと古典的な服喪の物語であり、読後にある種の清涼感をもたらすが、『アンテナ』はそれに比べてひどく後味が悪かった。なんとなく「祟り」が払拭され切っていないような気がする。(「あかないドア」はどうなるのか、「ボタ山のアンテナ」は何を意味しているのか、「霊の通路」って何なんだ、妹を殺したのはほんとうは「誰」なんだろう・・・)
田口ランディというのはかなり戦略的な作家のように思えるから、同じ主題、同じ結構で二つの作品を書くということはたぶんないだろう。
この「後味の悪さ」は『コンセント』で解決されたはずの「死者の弔い」が決して「十分ではなかった」という底なしの「オープンエンド」を暗示しているのかも知れない。
うう、やだやだ。こわいよお。
というわけで、「こわいものみたさ」の人には『アンテナ』、オススメです。(私はひどく悪い夢をみてしまった。)
「正しい死者の弔い方」を主題にすえた物語が最近何となく多いような気がする。
『取り替え子』も、『シックスセンス』も、『敗戦後論』も、『河原のアパラ』(町田康)も、テーマは「どうやって成仏しない死者を成仏させるか」という焦眉の急務について書いている。
どうしてなんだろう。