12月16日

2000-12-16 samedi

教授会のあいまに柄谷行人『NAM原理』を読む。
うーーーーむ。何だろうねえ、これは。
誰か教えて下さい。
私には意味がよく分からない。
読んでないひとのために簡単に簡単にいうと、これは21世紀の「共産党宣言」である。資本主義と国家制度を超克する組織論が書いてある。
そのキーコンセプトは地域通貨と生協とインターネットとくじ引きである、というのである。
私が「うーーーむ」と唸るのも分かるでしょ。
いや、これが例えば「COOPの未来」とかいう題名で愛宕山ミニコープのレジ脇においてあるパンフであれば、私も「おお、けっこう神戸のコープさんは過激だなあ」と感心して、「ねえ、ねえ、すごいよ神戸のコープは地域通貨を出して、共産主義革命をするみたいだよ」と大学の同僚たちに触れ回ることであろう。
しかし、柄谷行人が苦節40年マルクス主義思想を省察した帰結として、「賛助会員一口1000円以上」の「組織」つくりを提言とする、ということの意味が私にはいまひとつよく分からない。
柄谷がマルクスを研究して得た「未来像」は「要するにマルクスは国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとって代わるべきだといっているのである。そのとき、資本と国家は揚棄されるだろう。そして、そのような原理的考察以外は、彼は未来について何も語っていない。」(p.59) ということである。
協同組合とは、「資本制下で労働力を売らない」、「資本制生産物を買わない」人たちが、それでも生活できるための「受け皿」である、と柄谷は説明している。

「労働者=消費者にとって、『働かないこと』と『売らない』ことを可能にするためには、同時に、働いたり買うことができる受け皿がなければならない。それこそ、生産-消費協働組合に他ならない。」(p.36)

このような組織が全世界的なネットワークを形成したとき、資本主義と国家は揚棄されるであろう、と柄谷は予言する。そしてこれが現在可能な唯一の運動形態であり、かつ「現状を止揚する現実の運動を共産主義と名づけている」とマルクスが定義している以上、これこそが「共産主義」なのである。
困ってしまったなあ。
柄谷の言っていることは正しい。
正しいんだけれど、変である。(「正しいが変」ということってあるのだ。)
私には少なくとも二つ柄谷が言い落としていることがあると思う。
一つはこのような「原理的」な運動を唱道し、それに賛同している人間たちは、いまのころ全員が「資本制」と「国家」の受益者であり、それを「揚棄する」ことより、それがとりあえずしばらくは「順調に継続する」ことによって、より多く利益を得る、という逆説を生きている、ということである。
つまり、この「原理」という本が価格1200円で書籍流通の構造の中でベストセラーになり、運動に多くの学生市民が参加し、みんなが「ナムナム」と言い出し、「ナムにあらざれば知識人にあらず」的なムードが高まり、アソシエーショニストであることの「文化資本」が高騰し、「賛助会費」が(地域通貨じゃなくて、円で)NAM事務局の金庫を満たす、ということをとりあえず(不本意ながら)NAM運動は目指しているわけである。
つまり、NAM運動は、それが揚棄すべき資本制市場経済を「基盤」にして立ち上がるわけであり、そのシステムそのものが柄谷をはじめとするアソシエーショニストの諸君の消費生活を当面は支えて行くわけである。
しかし、そのような「ねじれ」はどこかで廃棄されねばならないだろう。
それは、いつ、どのような仕方でなされるのだろう?
「資本制生産物は買わない」ことを第一のスローガンに掲げる運動のファンドが(『原理』という)「資本制生産物」を資本制マーケットを流通させて、できるだけ多くの人に「買わせる」るという形態で獲得されるほかないという矛盾はどの段階で「揚棄」されるのであろう?
おそらく、協同組合が柄谷たちの消費生活を支えるだけの構成員数を抱えたときに、すべての「ねじれ」は解消されるのであろう。
しかし、「資本制生産物」を買わないで、なお日々を楽しく暮らすだけの「消費生活」を基礎づけるためには、衣食住の確保だけではすまされない。
消費生活には、映画館や娯楽小説や音楽CDやゴルフ場や能楽堂や居酒屋やハンバーガーショップやヨットハーバーやゲーセンなどなど、私たちがそこで消費行動を行っているサービスが含まれる。それらの過半を協同組合が提供していなくては、資本制市場からの「離陸」は果たせない。
でもそのためにはいったい何人くらいの組合員が必要なのだろう?
100万人くらいだろうか?
それくらいいれば、資本制市場と独立したかたちで生産と消費をまかなうことはできるかもしれない。
しかし、そこに至るまでの過程で、この運動は市場経済のメカニズムと国家の管理ときちんと折り合っていかなくてはならない。
そして、もし「資本制市場経済」と「国家システム」の下で、すくすくとNAMが育っていくのだとしたら、そのとき私たちは深甚な疑問に逢着することになる。
だったらどうして資本主義と国家を揚棄する必要があるの?
だって、君たちまさしく資本主義と国家というシステムの中で、みごとに共産主義組織を作り上げることができたじゃない?
ここで私の頭は混乱する。
自分がやりたいことをやらせてくれないシステムだから、このシステムを揚棄する、というのなら話は分かる。
自分がやりたいことを少しも邪魔しない(どころかときどきアシストしてさえくれる)システムをあえて揚棄することの意味は何なのだろう?
NAMは資本主義を禁じるが、資本主義はNAMを禁じない。
どちらが「正しいシステムか」と問われたら、私は答に窮する。
どちらが「でたらめなシステムか」と問われたら、私は迷わず「資本主義」と答える。
そして、正直言うと、私は「でたらめなシステム」がけっこう好きなのである。
もう一つ柄谷が見落としているのは「欲望」である。
仮にNAMの運動が順調にすすんで、1000万人程度の構成員を擁する巨大な生産-消費協同組合ができたとする。この組織はどのような「商品」を生産、流通、消費させる予定なのだろう。
後期資本主義社会の市場について私たちが学んだことの一つは、私たちは「必要がある」からものを買うのではなく、「欲しいから」買う、ということである。
私たちの「欲しい」という気持をかきたてるのは、商品の「使用価値」でも「交換価値」でもない。
用語の解説をここでさせていただきますが、「使用価値」というのは、モノ自体が「何かの役に立つ」という場合の価値である。(亀の子だわしは「フライパンを洗う」のに役に立つ。)
「交換価値」というのは、モノそれ自体の価値ではなく、需給関係によって生ずる価値である。(ゴムボートの使用価値(水に浮く)はどの市場においても同一であるが、「タイタニック号沈没間際」と「初秋の湘南海岸において」では交換価値が異なる。)
さて、資本制市場において私たちの欲望を喚起するのは商品の使用価値でも交換価値でもない。
それは商品の「象徴価値」である。
象徴価値をボードリヤールは「その商品がもつ社会的な差別化指標としての価値」と定義している。
分かり易く言い換えよう。
「ローレックス」と「スウオッチ」はどちらも計時能力という使用価値においてはほとんど優劣がない。しかし、一方は100万円、一方は9800円。「どちらが欲しい?」と尋ねれば、多くの人は「ローレックス」と答えるだろう。
どうして?
もちろんローレックスをはめていると、見た人が「わ、すげー」と驚くからである。
見た人の目に「興味と懐疑と畏怖」の表情が浮かぶからである。
ローレックスをはめている人は、このような高額の商品を彼に供与しうる「なんからの回路」(濡れ手で粟の金融商品とか「リッチなパパ」とかヤクザとか)にアクセスしているという事実がこの「興味と懐疑と畏怖」の感情を構成する。
それが「差別化」ということの内実である。
差別化とは、端的に言うと「ここから先はオレは行けるけど、あんたはダメ」と言うことである。
つまり、象徴価値をもつ商品とは、「それを通じて迂回的にしか表象されえないものの存在を暗示する商品」のことである。
「不可視のもの」を背後に蔵していることによってはじめてある商品は「象徴価値」を帯びるのである。
お分かりだろうか。
だから、ある社会において高い象徴価値を持つ商品とは、「不可視のもの」あるいは「外部」とのつながりを暗示する商品になるのである。
例えば、占領下の日本において象徴価値が高い商品は「キャデラック」や「ジッポ」や「レイバン」であった。それはその所有者がそれを誇示することによって「米軍」という「不可視の外部」とのコネクションを暗示することができたからである。
いま若者たちが例外的な欲望を示している対象は携帯電話である。すぐお分かりになるとおり、それはまさしく「見えない外部との連絡」の記号そのものである。つまり、携帯電話はいわば端的に象徴価値「だけ」で構成された商品なのである。
話を元に戻すと、人間がある限り(それがNAM社会であれ)、人々は必ず象徴価値を持つ商品を渇望する。
柄谷はNAMにはどのような秘密も、どのような権力も存在しない、と主張する。
NAM社会はその「外部」に「資本制市場」と「国家」を叩き出す。
だとすると、論理的に言うと、「NAM社会」においてもっとも高価な商品、その構成員が切望する商品は、「資本制市場と国家と秘密と権力へのアクセスを表象するモノ」だということになるだろう。つまり、「NAMの外部」と連絡を有することを記号的に表象するモノに人々は最高の価格をつけることになるだろう。
理性的な社会では「狂気」がもっとも欲望を昂進させる商品になる。「正しい社会」では「邪悪なもの」がもっとも欲望を昂進させる商品になる。
柄谷のような怜悧な理性がこのような単純な事実を見落とすはずはない。
柄谷が構想している未来社会において、柄谷は自分自身を「内部」と「外部」のインターフェイスに位置づけようとしている。彼は協同組合の運営という内部的な実務作業にはまったく関心を示さない。彼が興味を示しているのは、「資本制市場と国家」を「揚棄する」作業-つまり「邪悪なもの」とのインターフェイスだけである。
つまりこういうことだ。
柄谷は、いま資本制市場の「内部」において、「資本制を揚棄する」という本を書いて、彼自身が「外部」との回路であることを示してその象徴価値を高めることに成功した。そして、資本制市場と国家の「外部」である来るべき共産主義社会においては、資本制と国家の境界面で、その「センチネル」としてアソシエーショニストたちの欲望の焦点であり続けることを計画している。
つまり、柄谷の理想社会とは、柄谷自身がつねに「その社会においてもっとも欲望をそそる商品」であるような社会なのである。
おおお、なんと賢い人なのであろう。

大江健三郎の『取り替え子(チェンジリング)』を読む。
伊丹十三が謎めいた自殺をしたとき私は強い衝撃を受けた。
『ヨーロッパ退屈日記』以来、私は伊丹の書き物のファンである。
彼が岸田秀と共催していた『モノンクル』という短命な雑誌を私は1号から廃刊まで愛読していた。『お葬式』も『たんぽぽ』も『マルサの女』もロードショーで見た。
大江健三郎は私の高校生のときの知的アイドルである。
『持続する志』という分厚いエッセイ集を17歳の私はほとんど貪るように読んだ。
16歳のときに、あろうことか小説を書いたのは『セブンティーン』に触発されたからである。(1枚書いて、才能がないことに気づいて止めたけど)
あとにもさきにも私が「作品集」を揃えて買ったのは大江だけである。
そしてその作品の中で私がもっとも愛したのは『個人的な体験』と『日常生活の冒険』であった。後者は大江の松山時代からの親友であり、義兄である伊丹十三の印象的な肖像を描いたモデル小説である。
私は1970年代のどこかで(たぶん『洪水は我が魂に及び』を最後に)大江の忠実なフォロワーであることを止めた。
しかし、そのあとも、私は私の二人の「元アイドル」が深い絆で結ばれていることをいつも心頼もしいことだと思っていた。
『取り替え子』は大江健三郎による伊丹十三の「鎮魂」の歌である。
だから、伊丹の自死が大江をどのようにみごとに「総括」してくれるか、私は深い期待を寄せてこの本を読んだ。
残念ながら、大江の「鎮魂」の言葉では、少なくとも「私にとっての伊丹十三」の存在の意味は尽くされなかった。
伊丹十三という希有の知性について、大江に続いて、誰かがその「擁護と顕彰」の言葉を書かなければならないと私は思う。
けれども、かつての盟友であった岸田秀は回復不能の鬱のうちに沈んだままである。伊丹を深く愛した山口瞳はすでにない。
いったい、このあと誰が伊丹十三について、その恐るべき天才の全貌を語ってくれることになるのだろう。