11月11日

2000-11-11 samedi

重信房子が逮捕された。
西成のワンルームに逼塞して、高槻のホテルで捕まった。
私は日本赤軍という政治党派にいちどとしてシンパシーを感じたことがないけれど、この逮捕には少しだけ心が痛んだ。
何ヶ月か前、函南の駅で過激派の中年男の方が刺殺されたときも何となく気持ちが暗くなった。
一体、この人たちはいま何を考えて「政治」をしているのだろう。
1970年代の初め頃に左翼の運動から「足を洗う」ときに、(洗うほど浸かっていたわけではないけれど、それでも)一度はある政治党派の運動に荷担した以上、(そして、その綱領や党派の「名において」何人かの人々を罵倒したり、傷つけたりした以上)その方向転換を説明する責任が自分にはあると考えた。
どういうロジックで私は自分の転向を説明すべきだろう。
「政治から撤退する」ことについて、どう考えてみても「ポリティカリーにコレクトな」言い分はありそうになかった。
現に、そのころ、私のまわりでは運動から撤退する人たちがぞろぞろいたけれど、アカウンタビリティについて、お手本になれそうな人は一人もいなかった。
彼等の多くは「一夜にして」転向した。
前の日の午後までアジ演説をしていて、翌朝にはもう姿をくらましていた。(そして、ほとぼりがさめた頃、髪を切り、めがねをかけ、こぎれいな服装で大学へ戻ってきた。)
彼らは何も弁明らしいことは言わなかった。
ただ以前の知り合いの姿をみかけると逃げ出すだけだった。
私は別に恨みも憎しみもあるわけではない。ただ聞きたいだけだった。
「いったい、どうしたんだよ」
彼らはふてくされて答えた。
「なんとでも言ってくれ。おれは東大出という看板を棄てるわけにいかないんだよ」
なるほどね。
そのあと彼らは一流企業や中央省庁に入っていった。
居酒屋で若い連中をつかまえて「おれらはな、身体はって戦ったんだよ」みたいな見苦しい説教をして嫌われることになったのはこの人たちだろう。
これほどドラスティックではなく、なんとなく「自堕落」に崩れ落ちて行くというパターンもあった。
薄汚い四畳半に鬱屈して、安酒と麻雀とジャズとセックスにどろどろよどんでいく「サブ・カル系」の人たちは、そもそもはじめからあまり政治的な人たちではなかったのかも知れない。彼らは運動が反秩序的で祝祭的であるかぎりは喜々としてつきあうけれど、ルーティン化するとあっさり見限って、彼らの「趣味の世界」に隠棲した。
私はどちらかと言えば、この人たちと仲良しであった。
ベ平連のような市民運動上がりのリベラル派の学生たちもけっこうタフだった。
彼らはデモに出ながら授業にも出ていたし、バリ封のあいまにサッカーなんかしていた。
そのままさしたる葛藤もなく卒業した彼らは、有機農業やったり、市民運動をしたり、田舎でペンションをやったり、ジャズコンサートのプロデュースをしたりして、地方の「ちょっと毛色の変わった教養人」みたいな快適なポジションをいまもたぶんキープしている。
私この人たちが苦手だったし、いまも苦手である。
そして、学生たちの政治運動が現実的にほとんど無意味だということが分かっても、「革命」が幻想だということが分かっても、なお党派や組織にしがみついている「きまじめな人たち」がいた。
私が「言い訳」を用意しなければならなかったのは、たぶん、この人たちに対してである。
この人たちはずいぶん酷いこともしていたけれど、その「つけ」もきちんと払っていた。
彼らは約束されかけていた快適な社会的ポジションやプチブル的な快楽を棄てて、誰も感謝せず、誰からも尊敬されない「革命闘争」にその青春を費やし、彼らが求めた理想を何一つ実現できぬままに、何人かは無惨な死を迎え、何人かは白髪の老人となった。
私は彼らにシンパシーを感じないけれど、彼らが20代の一時期にいささか性急に選択した一つの生き方の「つけ」を生涯をかけて払い続けていることにはいくばくかの敬意を払う。彼らはとにかく「自分の負債は自分の身銭を切って払う」という態度を貫いているからだ。
この人たちと私の分岐点はどこにあったのだろう。
「物理的暴力が嫌い」という私の気質はたぶんその分岐の一つだ。
私は「物理的暴力が嫌い」な人間だというとびっくりする人がいるかも知れない。10代後半からほとんど休みなく武道(それはいかに効果的に人を殺傷するか、という技術の体系だ)を稽古してきた人間が「暴力が嫌い」だと。
でも、ほんとうに嫌いなのだ。
正確に言うと「暴力が恐い」のである。
私は身体的な暴力に対して異常に弱い。
拷問にあったら、拷問者の靴を舐め、ぺらぺらと仲間を売るようなタイプの人間である。
痛いの大嫌いだから。
そして、わずかな物理的暴力に屈服して、自分が最低の人間であることを思い知らされるというのは、痛いことよりもさらに気分が悪そうだ。
「人に痛い目に合わされる」というのは私にとって二重に気分が悪いことであるので、そのような機会をできるだけ最小化したいというのが少年期からの私の生き方の大原則であった。
武道を稽古したのは、できるだけ「痛い目」に合わされないためである。
強くなれば相手を痛い目に合わせられるからではない。
相手がむやみに多かったり、「ひ、卑怯な、飛び道具とは!」という状況では私程度の武道能力はあまり役に立たない。
そうではなくて、武道を稽古していると、「やばい」状況というものに対する予知能力が高まるからである。
「なんだか、この角をまがるとやばいことがありそうだ」というような感覚はけっこう鋭くなる。
おかげで、爾来30年、一度もやばい目にあったことがない。
ただのおっさんを見ても「うーむ、一見ただのおっさんだが、実は拳法の達人だったりして・・・」と妙に気を回して、こそこそ迂回するからである。
ま、とにかく、暴力を行使するのも、行使されるのも、私は大嫌いである。
大、大、大、大嫌いである。
ところが、過激派の政治というのは、暴力というものを政治課題実現の手段として論理的には肯定する。
私が行使する暴力の被害者が(私と同じように)暴力に屈してへこへこしながら、心底自己嫌悪に陥っている胸中を察すると、私には自分に暴力を行使する権利があるとは思えなかった。
それが分岐の一番目。
もう一つの理由は、「政治的なもの」というのが「いわゆる政治プロセス」だけに限定されたものだというふうには考えられなかったことである。
ある種の爆発的な政治運動を駆動するのは、綱領の整合性でも、政治課題の立て方の正しさでもない。
不意に時代に取り憑く、ある種の「気分」である。
その「気分」のメカニズムを理解したものは政治的に影響力を行使できる。「気分」のメカニズムが分からないものは何もできない。
そして、「気分のメカニズム」を理解したい、という私の知的欲求に、過激派の政治学は全く答えてくれなかった。
二十歳のころの私は漠然とそれを「狂気の構造」とか「物語への没入」とかいうふうな言葉で考えていた。サドやブルトンやバタイユは少しだけそのヒントを与えてくれた。しかし、それは非常に堅固なある精神的風土の産物であり、温帯モンスーンのびちゃびちゃした精神的風土に移植することはできそうになかった。
日常のごくトリヴィアルな経験のうちにしみこんでいる「政治性」について理解すること、そのことの方が現実の政治過程に対する具体的なアクションの「正しさ」を論証することより優先順位の高い課題であるように私には思えた。
というのも、レアルポリティークの場面では私は結局「誰かの尻」についていくことしかできないし、「誰かの尻」についていって、何らかの政治的成果を勝ち得たとしても、それは結局「私のもの」ではないからだ。
私は「私の政治」というもの-私以外の誰によっても構想しえず、私がいなければ決して実現できず、私が完全なる熱狂をもってそのために死ぬことができるような政治行動-がありうるのかどうかを知りたかったのである。
要するに、暴力が大嫌いで、知的操作が大好きな二十歳のガキだったわけだ、私は。
しかし、とにかく私はそのような危うい理説を掲げて学生たちの政治からの撤収を宣言した。
私は「夜逃げ」もしなかったし、「四畳半」にも逼塞しなかったし、「シコシコ」とかいう擬態語で語られた「小さな政治」にもかかわらなかった。
私は自分が属していた党派の巣窟に行って、これこれの理由で私は君たちと縁を切る、と宣言した。
活動家の諸君はちょっとびっくりして私を見ていた。
彼らは別に怒りもせず、非難もせず、「あ、そう・・・」というふうにぼんやり私を見ていた。もともとあまり私の政治力についてあてにしていなかったから、失って惜しい人材でもなかったのであろう。
私は「じゃ、そーゆーことで」と言ってすたすたと出ていったけれど、さいわい追いかけて引き留める人もいなかった。
でも、それ以後も私は活動家の旧同志たちとけっこう仲良くやっていた。
学内で会うとにこにこ笑い合い、いっしょにお茶を飲み、ご飯を食べた。
いちばん仲の良かった金築君はそのしばらくあとに神奈川大学で敵対党派のリンチにあって死んだ。
フラクの「上司」だった蜂矢君はしばらくして殺人謀議で指名手配された。
大学を仕切っていた政治委員たちは地下に潜った。
そしてみんないなくなった。
私はぽつんと残された。
自由が丘の駅でデートの相手を待っているときに交番のところに彼の写真が貼ってあった。
「あ、蜂矢さんだ」と小さな声でつぶやいたら、制服警官がでてきて、「知り合いか?おい、知ってるやつか?」と尋ねてきた。私は気まずくなってその場を早足で去った。
1973年の冬、金築君は太股に五寸釘を打たれてショック死し、蜂矢さんは逃亡生活をしていた。私は毛皮のコートを着た青学の綺麗な女の子とデートをしていた。
どこに分岐点があったのか、そのときの私には分からなかった。
いまでもよく分からない。
生き残った人間は正しい判断をしたから生き残ったわけでない。
でも、生き残ってよかったと私は思う。
少しは世の中の仕組みについて分かったこともある。少しは世の中の役に立ったことも(たぶん)ある。
重信房子はどう思っているのだろう。
彼女もまた自分は世の中の仕組みについて理解を深めたし、世界を少しだけでもよい方向に押しやったと信じているのだろうか。
たぶんそうだろう。そう思わなければ30年もやってられない。
では、私と重信房子のどちらがより「妄想的」であり、どちらがより「現実的」だったのであろう。
そもそも誰にそれを判断する権利があるのだろう?