11月9日

2000-11-09 jeudi

というわけで忘れないうちに「水戸黄門」の話をします。
今回のゼミ発表はナショナル劇場の長寿番組「水戸黄門」。
69年に始まり28部、30年余。実に900回に及ぶ国民的TV番組の人気には隠された「理由」があるに違いない。
しかし、発表者も「視聴者のニーズにジャストフィット」というばかりで、「なぜジャストフィットなのか」の理由については適切な説明ができなかった。
さて、これについては私は十年来の持論がある。今日はそれについてお話ししたい。

10年前、私は遊びに行った岡山の伯母の家ですることがないので、ごろごろと『暴れん坊将軍』の再放送を見ていた。
そのとき私の心にふと根源的な疑念が兆したのである。
なぜ「暴れん坊将軍」という番組があるのに、「暴れん坊天皇」という番組はないのであろうか?
若き明治天皇が口うるさい侍従・山岡鉄舟の眼を逃れて皇居の井戸から抜け出して、市井の遊び人「睦ちゃん」に身をやつし、このいたずらをにたにた笑って見守る勝海舟や、鉄舟の密命を受けてボディガードを任じる清水次郎長、西郷隆盛の密命を受けて「睦ちゃん」の後を追う桐野利秋、花柳界でとぐろを巻いている成島柳北やら山内容堂公と入り交じって、長屋の娘に岡惚れされたりしながら、井上馨の汚職やら、黒田清隆の酒乱やら、藩閥政府の悪政を糺してゆく、という話はけっこう面白そうではないか。

「静まれい。このお方を誰と心得る。この菊のご紋章が目に入らぬか」
「へ、へ、陛下・・・」
「おう、黒田。おいらの勅任の公職にありながら、こりゃまたずいぶん派手に私腹を肥やしてくれたじゃねえか」
「お、恐れ入ります」
「いくら伊藤や山県の目はごまかせても、おいらの背負った皇祖皇宗のご遺訓が黙っちゃいねえぜ。おう、黒田。このけじめ、どうつけるつもりでい。」
「ええい、こうなったらやぶれかぶれじゃ。ものども、出あえい。陛下の名を騙るこのくせもの、切って捨てい」

なかなか楽しそうではないか。
私は深く考え込んでしまった。
普通の人があまり悩まないこういうことを深く悩んでしまうのが私の癖である。
宮内庁からのクレームとか、右翼の過剰反応とかいうリスクがあるから企画段階で一発でボツになったということであろうか。
いや、私はそうは思わない。
そもそも「暴れん坊天皇」は企画としてブレストのテーブルにさえ上がったことがないのではないか。電通や博報堂のおきて破りの企画マンでさえ、天皇を主人公にしたヒーロー劇の可能性を思いつくいことはなかったであろう、と私は思う。
なぜか。
そのわけは、その逆を考えればわかる。
これまで、時代劇として放映されたTV番組を思い出してみよう。水戸黄門を筆頭に、大岡越前、遠山の金さん、長七郎江戸日記、うんたらかんたら。総じて、これらはすべて徳川幕府の(準)公務員が、民間のニーズを汲み上げてシステムの不調を調整する、というドラマである。
システム中枢から派生された調整役が、システムそのものの安定のために、システムの中に不可避的に生じる「ノイズ」を超法規的に解消してゆく、というのはテクニカルには「サイバネティックス」と呼ばれる学知の夢である。水戸黄門や遠山の金さんは「サイバネティックス」的に言えば理想的な「ノイズ・クリーナー」なのである。
つまり、私たちが毎日見せられているワンパターン時代劇は、暗黙のうちに「徳川幕府は理想的な仕方で機能していた統治システムである」というメッセージを運んでいたのである。
もちろん、おバカな評論家はこれをして「体制への帰順を庶民の無意識に刷り込むためのプロパガンダ装置である」というような評言を口にしてなにごとか分かった気でいる。
しかし、これらの時代劇が「体制への帰順」を刷り込む目的で生産され消費されているとするなら、それではなぜ「暴れん坊天皇」がシリーズ化しないのかを説明することができない。
同じ理由で「暴れん坊首相」(森総理がうるさい野中や青木の眼を逃れて官邸から抜けだし夜な夜な赤坂の料亭で・・・って、面白くないか、別に)という番組をだれも企画しないことの理由も説明できない。
なぜ、すばらしく効果的に機能しているのが徳川幕府であって、明治政府や平成政府であってはいけないのか?
私はここで「はた」と膝を打ったのである。
もし徳川幕府がすばらしく効果的に機能している統治システムである、という話型を戦後数十年にわたって私たちが享受してきたのだとすれば、それは迂回的には、「では、誰がそのような素晴らしい統治システムを破壊したのか?」という問いにたどりつくはずである。
葵が枯れて、菊が栄え、葵の栄華だけが讃えられ、誰一人菊の栄華をことほがない。
そうなのである。
時代劇のメッセージはその顕在内容にではなく、それが執拗に言い落としているもののうちにある。

「誰がこんなすばらしい統治システムを壊したのだ?」

天皇制である。
時代劇の隠されたメッセージは実は明治維新から1945年までの77年間の「天皇制の日本」を迂回的に非難することにあるのだ、というのが私の解釈である。
考えてもみたまえ。
戦後55年のあいだに「明治時代の名刑事」とか「大正時代の名判事」とかを主人公に擬したTVやラジオの番組があったであろうか?
私たちが知っている唯一の例外は「昭和初期の名探偵・明智小五郎」であるが、彼はどのような意味でも彼の時代の統治システムの有効性を証言しない。
あるいは、生涯にわたって明治時代の統治システムの有効性の再評価を求め続けた司馬遼太郎の作品のうちTV化されたのは、(明治政府と戦った)「新撰組血風録」であり(生きていればおそらくは明治政府を否定したであろう)「龍馬がゆく」であり、(明治政府の統治能力の欠如を描いた)「翔ぶが如く」であり、「坂の上の雲」ではない。
「坂の上の雲」が映画化もTV化もされないのは、日本海海戦のセットを組む予算がない、というだけの理由なのだろうか?
メディアは口を開けば、日本人はその恥ずべき過去の清算をしようとしない、と苦言を呈する。
しかし、ほんとうにそうなのだろうか?
これほどまでに執拗な「明治維新から敗戦までの統治システムへの評価」についての言い落としと、「時代劇」を通じての「徳川幕府の統治システムの(あきらかに歴史的には疑わしい)有効性」についての物語的反復には何の意味もないと言い切れるであろうか?
私はそうは思わない。
私はこれを明治維新から敗戦までを「かっこに入れて」、1868年を1945年にじかに接ぎ木したい、という潜在的な欲望の発露であると思う。
「明治時代はけっこう楽しそうな時代であった」という言説が関川夏央や高橋源一郎によってごくごく近年になって言い出されたということは、考えて見れば奇妙なことだ。それは逆に言えば、明治がこれほど遠くなるまで、その時代について肯定的に語ることが無意識に忌避されたきたということを意味しているからである。
先日大正天皇についての本格的な歴史的評伝が上梓された。これもまたよくよく考えて見れば奇妙なことだ。なぜ、大正がこれほど遠くなるまで、その統治者の資質について肯定的に語る研究が忌避されてきたのか?
私たちの時代がひさしくある種の「抑圧」を受け続けていたという可能性はないのだろうか?
「抑圧」というのは、そこに「抑圧」がある、という事実そのものが決して前景化しないというかたちで機能する。
戦後の大衆的エンターテインメントはほとんど一度として1868年から1945年までの統治システムを正面から「断罪」したことがない。
それを私たちは「政治性の欠如」というふうに言い慣れてきた。
しかし、ほんとうに日本人はそれほどまでに政治性を欠いていたのだろうか?
ある政治体制について直接の論評を控え、「それが滅ぼしたもの」について過剰なまでの賛美を語るという仕方で、戦後日本は明治以来の近代史へネガティヴな評価を示してきたのではないだろうか?
そして、このような欠性的な言説編制こそ、すぐれて「政治的なもの」と呼ばれるべきなのではないだろうか?