10月30日

2000-10-30 lundi

多田塾同門の原君が遊びに来る。
原君は月窓寺道場少年部出身、早稲田大学合気道会主将と多田先生が手塩に掛けて育てた愛弟子であり、私にとっては端倪すべからざる可能性を秘めた期待の弟弟子である。
今回は、和歌山での武者修行旅の帰途の来神である。
目的の一つは鬼木先生におめにかかって、その杖術の妙技を拝見することである。
ま、稽古は明日、ということで、さっそくビールやワインをごくごく呑みながら、合気道について語る。
いつものことだが、同門の諸君と合気道について話し出すと、もうどうにも止まらない。最後は「多田先生の門弟になれて、ほんとラッキーだったね」ということで深くうなずき合っておしまい。

ふたりの話題のひとつは「弟子のスタンス」について。
師匠に過大な期待を寄せ、師匠におのれの「人生の意味」を与えてくれるところまでをも求める、というのは弟子としてとるべき道ではない、というのが私と原君の共通の見解である。
しかし、残念ながら、先輩、同輩たちの中には、「私はこれだけ合気道に打ち込んだのに、ついに先生は私を救ってはくれなかった」と言って、門下を去っていったものが少なくない。その一部分は「宗教」に走り、一部は武道の世界に「別の〈父〉」を求めたようである。
私は師匠にこれだけ尽くした。だから、これだけのリターンがあってしかるべきだ、というふうな功利的な発想は、師弟関係になじまない、と私は考える。
いや、師弟関係に限らず、すべての人間関係はほんらいそういうものではないのだろうか。
例えば、育児がそうだ。
私はこれだけの時間と労力を割いて子どもを育てたのだから、その分の「見返り」をよこせ、と子どもに要求するのは親として間違っている。
育児というのはそういうものではない。
子どもを育てている時間の一瞬一瞬の驚きと発見と感動を通じて、親はとても返礼することのできないほどのエネルギーと愉悦を子どもを育てる経験から受け取っている。
師弟関係もそれと同じだと私は思う。
「師に仕える」ということは、そのこと自体がすでに深い満足感を伴った行為である。
例えば、私は歩み去る多田先生の背中に最敬礼をする。その私のみぶりを先生は見ていない。それは誰か他の人にショウ・オフするための行為ではないからだ。しかし、そのようなときにこそ、それだけの敬意を向けるに値する人の弟子であることの喜びを私はかみしめている。
師弟関係はそのようにして、瞬間ごとに、往還するものをつうじて、完結してゆくものだ、と私は思う。
分かりにくい話だったかもしれない。ごめんね。
師弟関係というのはなかなかきちんと論じるのがむずかしい。
というのも、師弟関係というのは弟子がある種の「修辞的誇張」を以てしか語ることのできない関係のことだからである。
逆に言えば、「修辞的誇張」を伴わないような関係は、師弟関係ではない。
すべての弟子たちは、その師について必ずや法外な形容詞を賦与する。
「私の師は大洋的な叡智の持ち主でした」というふうに。
なぜなのか。
私はこれについて、以前こう書いたことがある。

「客観性を犠牲にすることなしには触れることのできない知見がある。私たちは師に仕えてそれを学ぶのである。」

「また、もったいぶらないで下さいよ。ウチダさん。『客観性を犠牲にすることなしには触れることのできない知見』って、何なんです?」
「ひ・み・つ」