弘前から帰ってきた。
弘前はよいところでした。シックな城下町で、食べ物もおいしく、お酒も美味しく、人心も穏やか。編集委員としての最後のおつとめだったので、分科会発表が終わったあとの解放感で、気持ちがはればれしたせいもあるのかもしれない。
聴取を担当した発表も「うう、わからん」と頭を抱えて泣き出すようなものがなく、みな平明で好感のもてる発表だった。ただ、若い人にはもうすこし「ガッツ」が欲しいところである。発表をきいている老大家が血圧をあげて「ば、ばかもん。何をいっとるのだ」とそのまま殴りかかるくらいの喧嘩腰の発表を、無責任な立場で聞きたいものである。
もちろん学会発表は若い研究者にとっては「デビュー」であるから、業界のお歴々に「名前を覚えていただく」という腰の引けた状態になるのはやむをえないが、あまり小さくまとまった研究では、誰にも「名前を覚えていただけない」ということもある。やはりここは懇親会の席のあちこちで
「・・・の発表きいたかね、内田はん」
「おお、きいたで。おもろいやっちゃなあ、あれ」
「いや、はらはらしたわ」
「** 先生、廊下で引きつけ起こしてたで」
「いや、あれでいいんよ。若い人は」
「そやな。若いときは、喧嘩売って、顰蹙買って、なんぼやからのお」
というふうにして固有名の引用回数を増すというようなかたちで若い人にはがんばってほしいものである。
分科会聴取も終わり、懇親会も終わって、編集委員会の中山先生へのねぎらいの乾杯も終わり、佐々木さんにも腹一杯「天狗舞」をおのみいただき、佐々木さん、中山先生、北村さん、北山さんら秋田へドライブにいかれるご一同を送り出して、ホテルのレストランで朝御飯をたべながら最後の半日をどうやって過ごそうかなと考えていたら、カミュ研究会の松本先生から金木の斜陽館に行きませんかと誘われた。
なるほど、弘前といえば津軽。津軽といえば太宰治ではないか。失念しておりました。
金木は弘前からJRと津軽鉄道をのりついで1時間余の距離。半日過ごすにはちょうどよいエクスカーションである。さっそく松本先生とごいっしょにぷらぷらでかける。
りんご園が線路の両側に拡がり、左手に岩木山を眺めつつ、津軽平野をとことこ列車は走り、五所川原で乗り換えて、金木の駅につく。
では太宰治ご自身に金木について語ってもらおう。
「金木は、私の生まれた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。」(『津軽』)
この文章がなぜか金木の駅に張ってあるベニヤ板に汚い字で書いてあった。いったいどこが「都会ふうにちょっと気取った町」なのであるか、訪れた人はみな一様に愕然とするであろうが、ほんとに「これという特徴のない」寒々しい町だった。おそらく、昭和初年にはまだ農業もさかんで、活況を呈していたのであろうが、いまはその歴史的使命を終えてしまったゴーストタウンのようにしか私には見えなかった。
その中で斜陽館だけが「異常」だった。
見た目も異常であるが、中も異常だった。同行の松本先生は土佐の大地主のあととり息子で家名と蔵の重さに辟易して育ったそうであるが、斜陽館をみているうちに「肩が軽くなった」とおっしゃっていた。「これくらいのものを背負っていたら、太宰も苦労したでしょう。これに比べれば、私が負い込まされいる過去は軽い。」
斜陽館の「もう滅びた・無意味な・豪奢さ」に圧倒され、彼が歩いた同じ廊下を歩き、同じ階段を上り下りし、蔵を改造した展示室で太宰のポートレートや肉筆原稿を見ているうちに、太宰治というひとがこれまでになく親しく感じられてきた。
向かいのドライブインで「太宰治らうめん」を食し、「富士山」という地ビールを呑み、芦野公園まで足を伸ばすという松本先生と別れてまた津軽鉄道の駅舎へ戻る。
太宰の肉筆原稿を読んでしまったせいで、体の中の「太宰モード」が on になってしまい、「あの文章を読みたい」という痛切な欲望に駆られ、金木の町中、乗り継ぎの五所川原の町を本屋をさがしてあるきまわるが駅の近くには本屋がない。弘前についてまっすぐ本屋に向かい、そこで『津軽』を買い求めて、そのまま読み始める。
太宰の文章にはそういう無意味な渇望を癒すだけの過剰さがある。
青森空港までのバスのなかでずっと読み続け、飛行機の中では眠り込んでしまったので、帰りの阪急電車の芦屋川あたりで読み終えた。
近代文学史は「内面」の発明者は国木田独歩だと教えている。そういう言い方をすれば、太宰もある種の文学的装置を発明した。それは内面とか自意識とかいうものとはすこしちがう。それは「内面」を見透かす視線である。たとえばこんなふうに。
「私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた箸の丸い欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。うしろで誰かが見ているような気がして、私はいつでも何かの態度をつくっていたのである。私のいちいちの細かい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけていのであるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作はあり得なかったのである。」(『思ひ出』)
「彼は当惑して掌を眺めた」という「ト書き」を付けているのは、「私の内面」とは別のものである。その「ト書き」を付けているまなざしと言語は、「私」というような充実した密度や厚みもたない、純粋な「ト書き」の機能である。
太宰はこの「ト書き」を語る「非人称的」なまなざしが「私」の内部に生じる壊乱を文学の仕事として記述した最初の作家である。そして、それがもたらす内面の嵐の中で、太宰治は「私」ではなく、「非人称の側」に賭金をおいたのである。
そして「私ならざるものに賭金をおくもの」としての「私」を生き延びさせたのである。
「真実は行為だ」という太宰の言葉に嘘はない、と私は思う。
「私」は自明なものとして、そこにあるのではない。
「私」を言語の効果、意味の結節にすぎないとする知見にあえて与することによって、そのように「私」を否定しうるものとしての「私」の主体性を奪還すること。
ややこしい仕事だ。
その仕事に太宰は成功したのか、失敗したのか、私にはよく分からない。たぶん作家としては成功し、個人としては敗北したのだろう。
『津軽』の語り手は、旅の最後に「子守のたけ」に出会う。その最後の言葉によって太宰治は文字通り「救済」される。
「三十年ちかく、たけはおまえに逢いたくて、逢えるかな、逢えるかな、とそればかり考えて暮らしていたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたのかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんなことは、どうでもいいじゃ。まあ、よく来たなあ。おまえの家に奉公に行ったときには、おまえは、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんのときには茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫の石段の下でごはんをたべるのがいちばん好きで、たけに昔噺語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手かずもかかったが、愛ごくてのお、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。」
これが太宰治が求めた究極の愛の言葉である。
「非人称的なもの」に与してまで、太宰が奪還しようとしたものは、平凡だけれど、「母の愛」だったのである。
私はときどき「母」になることもあるので、「たけ」のこの言葉には涙が止まらなかった。
よいなあ。太宰治は、やっぱ。
(2000-10-24 00:00)