10月20日

2000-10-20 vendredi

神戸女学院創立125周年式典がある。なんか半端な周年だね、と思うかも知れないけれど、120周年のときが1995年、震災の年で、式典なんか祝っている余裕がなかったのである。その後、キャンパスの改装も一通り済んで、また比較的のんびりした日々がもどってきたので、5年遅れで周年祝いということになったのである。
周年行事として、社交館の改装や、新クラブ棟(クローバー館)の改装など学生サービス関係への配慮を優先していることを私はとてもよいことだと思う。
私も125周年記念「毛布」というものを買い入れ(原田学長が通りすがりに、いきなり「買って」とふってきたので、「先」をとられて思わず「はい」と答えてしまった)「毛布」はテレビの前において、ポテトカウチ時に愛用している。
姉妹校の同志社やアメリカのKCCからもデリゲーションがおみえになって、堂々たるご祝辞をたまわり、さらに五代目学長のデフォレスト先生の詩に音楽学部の澤内先生が曲をつけた「記念歌」のご披露があった。いちど教授会で聴かせていただいたのを今日はいっしょに歌う。とてもよい楽曲である。KCCのガチョック会長がうるうると感動の涙にむせんでいるのにつられて人々もうるうると涙ぐみ、感動的な式典となった。
私はこういう儀式ばったことをきちきちとやるのが好きである。
いつでもどこでも「俺は俺だよ」という「素顔のままで」通すことをプリンシプルとしている人もいる。要は「心」であって、「かたち」なんかどうだっていいのだ、というのはなかなか立派なお言葉だが、私はそれはけっこう不自由で息苦しい生き方ではないかと思う。、
それらしい場面ではそれらしいふるまいをすること、「かたち」から整えて、「心」を細工してゆくこと、というのはなかなか気持ちの良いものである。

ゆうべNHKで11時から大江千里の司会のトーク番組に町田康が出ていたので、見る。
町田康の本は『くっすん大黒』からばたばたと読み続けて止まらなくなり、先週は『実録・外道の条件』で大笑いしたあとなので、期待に胸を膨らませてTVを見たが、期待にたがわぬ立派な人である。
大江千里君はあまりうまい司会者ではなくて、(誰がゲストの時も)質問がさっぱりインスパイアリングではないのだが、町田君は、そのつまらない質問から引き出しうるもっとも面白い問題を選りだして、それについて語っていた。
その中で印象に残ったのは、「自己表現するのはつまらない」という言葉であった。
私はこう思う、こう感じる、ということを人に言い聞かせるのはさっぱり面白くない。逆に、人に影響されること、自分の中にはないはずのもの経験をすることが面白い、というのである。
私はTVの前ではたと膝を打ち、そうそうそーなんですよ。さすが町田さん、分かっておられると一人うなずきを続けたのであった。
真に知的な人は「自分の内部にはないもの」に対する感受性が発達している。それは決して「他者性の倫理」とかそういうことごとしいものではなく、たぶん出発点においては「自分が自分でしかないことに対するうんざりした気分」というようなものなのだろうけれど、それがパンク・ロックから俳優稼業から文学にまで展開する過程で、とても深みのある思想になっている。
日本文学は町田康を得たことによっていささか命脈をつないだ、と私は評価している。
おそらく、今後しばらくのあいだ、町田康は村上春樹以来、最多のエピゴーネンを得ることになるだろう。もちろんエピゴーネンたちの大半はゴミだろうけれども、それでも「エピゴーネン」を創り出すというのはすごいことなのだ。

さて、明日から月曜までは学会で弘前である。日記はしばらくお休みです。ではさいなら。