10月19日

2000-10-19 jeudi

前にご紹介した在日朝鮮人・韓国籍の方から三度目のメールが来た。
この方も私同様、なんとなく疲労感にむしばまれてきていて、トーンは下がっているが、ジョン・フォードの『静かなる男』のショーン・ソーントンとレッド・ウィル・ダナハーの殴り合いみたいに、このタフな論争相手に対して、私自身はひそかな敬意を感じ始めている。
とにかくメールをありがとう。「付け足し」とこの方は書いているけれど、自分の言いたいことが適切に私に伝わっていないことへの寂しさが私には伝わってきて私は不覚にも涙をこぼしてしまった。
不思議なものだ。「異見」を理解することに抵抗する私の精神は、その「異見」が私に理解されない発言者の悲しみ(と言ってもこの人はたぶん怒らないだろう)に対しては無防備になってしまう。
とにかく、この方のお言葉をご紹介しよう。

えーとですね。最新の日記のその前の日記の分を読ませていただいたんですけれど、幾分困惑しております。左翼的...? 私の書いた意見は在日の事情を語るときのごく一般的な概略からそんなに大きくは外れていないはずです。あまりたいしたことは書いておりません。
私どものような人間が何かしら主張することが、内田さんや、内田さんにメールを送った方を傷つけるのでしょうか? だとしたら、本意ではないとともに、主張を変えはしないもののお気の毒に思います。
何が抑圧的な物言いになるかはなかなか自分自身では判じがたいものですが、私どもは日々、朝鮮人ということで抑圧されることが多いというのは事実でありまして、それを言うことがまた他の方々の抑圧に繋がるというのならばたいへん困ったことです。けれど、内田さんもそうですが、メールを送った方も私どもの事情からは単に遠い方のように見受けました。関心がないのならばそれでもいいのです。それでもいいのですよ。
在日朝鮮人は、今、現在他の国々で迫害されている人々に比べれば、随分平和な暮らしをできてはいるのです。...「恩恵」と言っても良いかもしれませんね。経済的発展をとげた日本に住み、私たちは確実にそのおこぼれには預かっています。殺されたり飢えていないというだけで、そのことの証拠となります。まだまだ甘ちゃんであることは疑う余地がありません。よく忘れてしまいますけどね。
このメールは付け足しのようなものでありまして、私は内田さんに対する反論を一応以前の二通のメールでしましたし、それらは特に改変することもなくほぼ全文掲載していただいていますので、もう言うべきことは言わせていただきました。
このメールは転載していただかなくても結構です。名前を伏せていただければ、転載していただいても構いませんが、...まあ、もういいでしょう。
では、これから寒くなりますが、ご自愛ください。ごきげんよう。

あなたもご自愛下さい。メールをありがとう。お礼を言います。

もう一人、鹿児島の梁川君からもメールがきた。相変わらず歯に衣をきせぬ直論だが、私はこの年少の友人の「お小言」にはいつも素直に従うことにしている。今回も耳の痛いお説教をされてしまったが、彼の言うことは反論の余地なく正しく、私は「なるほど、ごもっともです」と静かに聞き役に回ることにする。
では梁川君に語って頂こう。

内田大兄

お久しぶり。梁川です。在日の人との対話があまり生産的な方向に行ってないようで、残念です。「みなさん意見を言って」ということでしたので、以下に(無粋ながら)気になったことだけちょっと書きますね。返事のことは気にしないで下さい。「あいつそう考えたのか」と参考にしていただければそれで結構。誤解があれば、私の方で今後それを正すよう努力しますから。
まず、大兄の「多文化社会」ということばの使い方です(実際には、多民族・多文化共生社会と言ってますが、私はこれを「多文化社会」のことだととりました)。
私の知るかぎり、ふつうこの言葉は「異った民族や人種が、それぞれの差異を明確に表明しながら互いに共存する社会」を指すものとして使われています。したがって現在の「多文化社会」は、つねにゲットー化・モザイク化の危険と隣り合わせの不安定なものです。
しかし大兄が「日本は多文化社会にならなければならない」と言うとき、それは「異る民族や人種が、それぞれの差異が気にならないほどに国家理念に奉仕しあう社会」という意味で使われているような気がしてなりません。これは私の知るかぎり大兄独自の使い方です。
いいかえれば、通常の意味での(つまり、これまでの)「多文化社会」が、ナショナリズムを不治の病として捉え、その病を抱えたままいかに共存していくかを模索する結果生まれたものだとすれば、大兄の言う「多文化社会」は、それがあればナショナリズムという病を克服することができる(あるいは気にしなくていい)一種の処方箋として提示されているように思えます。
私は在日の人との議論が噛み合わない理由は、相方が「多文化社会」に与えている、この意味の相違にあると思います。つまり在日の人は普通の意味で受け取り、大兄はそこに個人的な意味を付与しているということです。
通常の「多文化社会」では「名乗り」が不可欠です。「私は土着日本人」「私は在日」「私はアイヌ」ということが、この社会の原理だからです。だから在日の人からすれば「多文化社会を是とする以上、お互いに名乗りあって権利を主張しようじゃない」ということになるでしょう。
しかし大兄からすれば「そういう態度をとる限り本当の多文化社会にはならない」ということになるでしょう。
私見では、大兄の言うことは御自身でおっしゃるように「理想」であり、その限りにおいて正しいものです。しかしその「理想」はまた大変に蓋然性の低いもののように思われます。どこの国でも実現されたことがなく、今後も実現される見通しのない(と言っちゃいますね)具体性を欠くものへの「命懸けの跳躍」は、在日の人たちの「再び私たちに日本国籍を取らせたいと思うのならば、まず国籍法を生地主義に改めることで「日本人」の定義を法的に変え、二重国籍も認めるべき」という具体的で現実的な要求との交換条件にはならないのではないか、というのが私の考えです。要は、双方の主張の次元があまりに違い過ぎるということです。これでは相手の要求を「理想」の名のもとに宙吊りにすることにはならないでしょうか。
加えて、大兄の「理想」は本来「世界国家」の理想とリンクされるべきもので、「日本社会」という個別的なものに対して言われるべきではないのではないでしょうか。
もしそれが「日本社会」の理想として提示されれば、それはかなり過激なナショナリズムと紙一重のものと受け取られても仕方がないと思います。なぜなら、現在私たちがその理想の実現として具体的に思い描けるものは、ナショナリズム以外にないのですから。
以上、話しを一点に絞ったつもりです。在日の人に言いたいことは一切省きました。
それから、フランスの多文化社会論については、Wieviorka, Touraine などCADIS のメンバーのものが参考になります。
ともあれ、メールによる議論は難しいですね。私は最近、親しい人への私信か、仕事の用事か、褒めること以外に、なるべくメールは使わないようにしています。物事やはり便利だけではすまないということでしょうか。

梁川君の言うことは正しい。私が自分で「自分の主張の弱いところはここなんだけど」と思ってびくびくしているところをことごとく指摘している。
ただ、繰り返しになるけれど、一つだけいい足しておきたいのは、私は今回の議論では原理原則についての一般論だけを語っており、一度も具体的な法制の水準での議論をしていない、ということである。(梁川君も分かっていると思うけれど)
法制の問題は、「これだとわりとうまくいくんじゃないですか」という非情緒的でテクニカルな精神の領域の仕事であり、計量的知性の登場する領域である。私は情緒的な語法で語るのをやめて、計量的知性が主人公になるような次元に話をすすめませんか、ということだけを言い続けているのである。
その「計量的知性が主人公になるような次元」(「ゲゼルシャフト」といってもいいけれど)への共同的な踏み込み(私はそれを「命がけの跳躍」と書いたのである)をある人は「偽装したナショナリズム」ではないかと疑い、梁川君は「不可能な夢」と判断している。
なるほど、私はそれが「偽装したナショナリズム」に見えることをやむをえないと思うし、「不可能な夢」かもな、やっぱりとも思う。けれども、誰かがこういうことを言わないと議論の「軸」というものは立たないだろうとも思うのである。
それがさまざまな意見の異同と妥協の可能性を前景化させるのであれば、このようなスペキュレーションもそれなりの歴史的機能は果たしていることになると私は思う。(なんだか情けない総括だな)
とにかく、ここに来て、私はなんだか豊かな気持ちになれた。なんでも書いてみるものである。議論に参加して下さったみなさん、どうもありがとう。ちょっと一息入れましょう。