10月17日

2000-10-17 mardi

ややテンションの高い話がつづいて、ちょっと気疲れしていたら、鳴門の増田さん(この方の張ったリンクのおかげで私は本を出すことになったのである。足を向けては寝られない恩人である)から「はげましのメール」が来た。こういうのはすごくうれしい。ちょっとご紹介します。

えーとそれと今日の日記も読ませていただきました。
僕はうちださんの議論に完全に同意します(ヨイショではなく)
ナショナリズムとか関係の政治的なハナシはなんで党派的な語り口になってしまうのか(そしてガクシャ業界では多かれ少なかれ左翼的な党派を強制されてしまうのか)というのが僕的には悩みの種でしてそのあたりのもやもやしたところがうちださんの書くものの中にはっきりと言語化されてるのをみると「おーいえー」という気分になるのです。
というかそういった「もやもや」を切り捨てるような政治的正しさならいらねえよ、と思うのですが、いかんせんアタマが悪いので「正しい」物言いの前に沈黙してしまう。んで鬱屈溜まる人々が、単に「正しさ」がキライという理由だけで「反動」的党派に身を投じてしまう(ほかに行き先がないから)、というのがいわゆる「若年層の右傾化傾向」といったようなのの実状なんじゃないかと思っています。
僕もカルスタとかマルクスとかフェミニズムとかの方々と正しさ比べやるのは面倒だし、かといってそれをちゃんと改善できる能力も知力も根性も度量もありませんので「マルクス主義右翼、かつ九州男児」という投げやりな自己規定で開き直るしかないんですけど、それもたぶん偽悪としか取られないのでしょう。やだやだ。
というわけで僕にできるのはこーいった普通の(僕は自分は日本で一番普通の市民だと思っていますが誰も認めてくれません。しくしく)人が持つもやもやみたいなのを、他の人と共有できるコトバと論理に変えていく作業を遂行しておられるうちださんを褒め称えることしかないわけなのです。「世界への最も正しい対し方」というのはまさにその意味で本気なのであります。
ですから「マスダの推薦なんて絶対に信用できねえぜ」なんつうことになってしまっては逆効果ですんで、ワタクシもまた日々の生活を正しく律しているつもりです。人の酒は断らない、とか。
すみません長々とわけのわからないことを書き殴りましたがとにかくうちださんの書くことは僕にとって非常に役に立っているということが言いたいわけであります。はい。
それでは。ワタクシもがんばります。

という増田さんからの「元気の出るメール」でした。
増田さんもがんばってください。

「自分は日本で一番普通の市民だと思っている」のだけれど、メディアに流通する言説のどれについてもどうしても共感がもてない、という悩みをもっているのは増田さんばかりではない。もちろん、それもそのはずでこの方たちは実は自分でおもっているほどは「普通」ではないのである。だが、「サイレント・マイノリティ」のこのみなさんたちこそ私にとってはかけがえのないオーディエンスである。
村上春樹が「お店の経営」のこつとして、「10人来る客の9人に好かれようと望んではいけない。10人のうちの1人が繰り返し来てくれればお店は成功である」ということを書いていた。
ホームページもお店と同じようなものだと私は思う。
私のホームページは、この鳴門の増田さんや、鹿児島の asuka さんや東京の平川君や鈴木先生や長崎の葉柳君のような「リピーター」によって支えられている。逆に言えば、あまりに意見や立場の違う人に対しては、基本的なサービスはするけれど、あまりフレンドリーなサービスは提供できない。
BBSに「内田さんに問いたい。あなたはいったい何と名乗っているのですか」という問いを書き込んだ人がいる。
あのね。このホームページは一応私の「家」である。
ひとの「家」に「お邪魔した」ひとが「あるじ」に向かって「あなたは何もののつもりなのだ?」と問いかける、というのはちょっとないんじゃないかと私は思う。
私は固有名で発信しており、住所も電話番号も公開している。政治的意見も社会的立場も、日本語を読めるひとであれば誰にでも分かる程度には明らかにしている。
それにたいしてわずか数行の書き込みを匿名で行う人間が、まるで対等の立場であるかのように「人定質問」をしかけてくる、というのはどういうことであろうか。
匿名で発信するということは、そのこと自体においてすでにいくぶんか「暴力」的である、ということをこの人はよく分かっていない。
匿名で書くものはリスクなしに人を侮辱することができる。
だからこそ、固有名で発信するものには許されるような発言を匿名で書くものは自制しなければならない。(私はそれがいやなので、固有名でしか発言しないのである。)
私はちょっとびっくりしたぞ。
私は「対話をしたい」ということを繰り返し申し上げているが、対話を継続するためには条件がある。それは最低限のディセンシーをわきまえるということである。それは他者性の倫理とか、政治的正しさとかいう「以前」の問題である。
もしこの問いを発した人が私の友人であったり、同僚であったりした場合、「あなたはなにものなのだ」という質問はそれほど失礼なものではない。(言い方にもよるが)私はその人が知りたいことをできるかぎり精密に伝えようと努力するだろう。しかし、おのれが「なにものであるか」を明らかにしない匿名の人間からの質問であれば、私はそれほどていねいには応接できない。(努力はするけど)
このような問いかけに私がにこやかに回答して、知りたいことを教えてくれるはずだ、とこの人は信じて書いたのだろうか。そうだとすれば、世の中はそういう仕組みにはなっていないよ、というほかない。
このような問いかけをすれば、相手が絶句したり、何かぼろを出すだろうと期待して論争的な意図でしかけた問いなのだろうか。だとすれば、この人が習得したこの論争方法を私はあまり好きではない。
そういう論争の仕方はたしかに経験的に相手を黙らせるためには有効だ。でも、そこからは何も始まらないと私は思う。それは何かを終わらせるための言葉であって、何かを始めるための言葉ではないからだ。
論争というのはふつう「私は正しい」と思っているもの同士のあいだで行われる。それぞれがそう信じているくらいだから、それぞれの言い分には必ずいくばくかの掬すべき知見が含まれている。それぞれの言い分のうちの汲むべき知見を汲み上げて、お互いを豊かにして、終わったあとに「ああ、話してよかった」となるのが対話的論争の楽しみである。
論争を不毛にしないための工夫はだからコンテンツにではなく、「相手からどうやって有益な知見を引き出すか」をめざす語り口にある。
どれほど違う意見でも適切な語り口で語り出されれば、なけなしの共感をそこから引き出すことができるし、どれほど近い意見でも語り口を間違うと、得るところなく終わってしまう。
私はいまあまり「対話的」な気分になっていない。これはあまり自分でもよくないと思う。でも、私だってたまには不機嫌になるときもある。
でも、そういうのは長くは続かないから大丈夫である。明日はまた機嫌をなおしますから、今日はちょっと口調がきつくてごめんよ。