10月16日

2000-10-16 lundi

先日メールをくれた方(在日朝鮮人・韓国籍)の方から二度目のメールが来た。
意図的に悪口を書く以外に、不用意な発言で誰かを怒らせるのは私の望むところではない。しかし、「私はあなたの発言に怒りをおぼえた」という人がいる以上、私はその怒りに対して有責である。
その有責性をどうやって引き受けることができるのか、私には「正しいやり方」が分からないが、とりあえずその方の言葉と私の言葉を並べて提示し、みなさんに「判定」して頂くのがいちばんフェアだろうと思う。読んで下さい。

私は、当初の内田さんの文章を読んだときに、深い深いところで静かな怒りがわきおこるのを感じました。
傷ついたわけではありません。近年、あなたのような一見リベラルと中立を装いながら、決してそうではない意見をよく見るから慣れています。
それに、私はすでに10年以上前に、内田さんの意見と同じようなことを書いた本を読んでおり、そのときに深く傷つけられています。それは、「現代コリア研究所」というところの所長をやっていた人物が書いた、「在日韓国・朝鮮人に問う」という本です。その内容は、「在日は甘えている。日本以外の国籍を持つことで、特権を持っている」というものだったように思います。「現代コリア研究所」というのは、「新しい歴史教科書をつくる会」と人脈的につながりがあり、主張するところは双方かなり親和性があります。内田さんが自由主義史観の批判をなさっていたのを読んだ記憶がありましたが、私から見れば、今回の内田さんのご意見は彼らのもつメンタリティにかなり近いものがある。私は、通常は、そういう意見は見ても放っておきますが、今回意見する気になったのは、あなたが「多民族共生社会」の到来を肯定するようなことを書いていたからです。傷つきはしないが、深い深いところで静かな怒りを感じます。
パギル(朴一)さんの民族性云々というくだりに違和感を憶え、それが気になるのなら、民族性に捕らわれているのはあなたではないのかと前信では書いたのです。自らの民族性というものが他民族の民族性によって侵食を受ける、もしくは損をするというメンタリティがあるのではないかと書いたのです。だから、お金のたとえも出てくる。もっと論じられるに値することは山のようにあるというのに、その程度のことで、そういう言葉が出てくる(笑)。そして、私が何か言うと「咎める」と言われる(笑)。
おそらくパギルさんは二世で、朝鮮語を話す両親に育てられた世代でしょう。私は三世で、親も私も日本語で考え日本語を話し朝鮮語はできない。私は日本の学校に通い、民族教育を受けたことがない。親族以外は在日コミュニティとの接触はほとんどない。食べるものはほとんど日本食、敬愛する友人はほとんど日本人です。全身日本に浸かっているようなものです。
ばりばりの民族主義者に会ったなら、「せめて朝鮮語を憶えろ」ときっと私は説教されてしまうことでしょう。私は朝鮮語ができないことを恥じません。空気を吸うように朝鮮語を習得できなかったのは私のせいじゃないからです。しかし、今私が日本に暮らし日本語を母語としていることは、明らかに歴史的経緯の末に生まれた状況です。それは、私は決して忘れません。同じように、私が現在日本国籍を持たず、韓国籍を持つという、内田さんのような方からみたらへんに思われるような状況にあることも全く恥じないし、そうなった歴史的経緯も決して忘れない。
私たちは、戦前には日本国籍を持っており、選挙権もあった。それがサンフランシスコ講和条約で取り上げられ外国人ということにされた。私たちは朝鮮人だが、私たちを恣意的に日本人にしたり朝鮮人にしたりしたのは日本です。例えば、私はその成り行きの延長線上で韓国籍を持っているわけですが、それをずるいことのように評されても困ります。再び私たちに日本国籍を取らせたいと思うのならば、まず国籍法を生地主義に改めることで「日本人」の定義を法的に変え、二重国籍も認めるべきです。
今では在日の多くが日本人と結婚し、その子どもがある年齢になったら日本国籍かもうひとつの国籍かどちらかを選ばなければならない局面が増えているかと思いますが、そういう選択を迫られること自体、あまり健全なこととは思えません(ところで、前信で国籍法が父系の血統主義であると書いたのは、私の誤りでした)。何も私たちが内田さんの言うところの「命懸けの跳躍」をしなくとも、法律を変えるだけでかなりの問題は解決するのです。そして、これは今までもいたし、これからも来るであろう「ニューカマー」と呼ばれる人々にも充分あてはまることです。
「命懸けの跳躍」を他人にさせようとしないでください。あなたが現在インサイダーであること、もしくは自認することはあなたの都合なのです。そして、私たちをかわいそうな人たちのように形容するのもやめてください。内田さんは「共生」を救命ボートにたとえ、私がまだ海に浸かっている人間というふうにお書きになりましたね。私はそのたとえを認めません。私はボートに乗せてくれと懇願しているのではない。ボートに乗っていないのでもない。私たちは、内田さんが生まれる前から連綿と続いて日本で生活していたのであり、日本人という他人との「共生」などとっくに果たしているのです。それが一般的日本人からは見えなかっただけです。それが充分に吟味された上での「他民族共生社会」という理念でなければ、かつての大東亜共栄圏の発想と根っこは変わりません。それに、私は理念に駆り出されて動かされることがあまり好きではないので、内田さんのお供はできないかもしれません(笑)。これからの「他民族共生社会」は理念とともにやって来るのではありません。日本が移民を入れざるを得なくなって(日本の都合ながら)いやおうなしにやってくるのです。そのときに日本人、そして、在日が「新しい住民」に対してどのような皮膚感覚を持つかが正念場だと考えます。日本しか知らない在日もその点では日本人と条件は同じです。しかし、私たちにはかつて日本に新しくやってきたという来歴がある。その意味で、「新しい住民」に対する責任は日本人より重い。かつての日本人のように彼らに対してふるまってはならない。とは言っても、なかなか責任が全うできるものではないのですが、忘れないでいることはしようと思っています。
最後に。私は国籍にアイデンティティを重ねることを最もやってはいけないことの一つと考えていますし、「民族的」なるものからは極力自分を遠ざけて生きてきました。だからこそ、パギルさんのおっしゃるような程度の「民族性」という言葉には、それほど気にならないといいますか。日本に首までどっぷり浸かって暮らしているのはパギルさんとて同じだろうと想像します。その中で発露する程度の民族性です。枕詞のようなものかと思います。もし在日が鼓舞されたとて、たかだか60万人です。
今後、移民の数はもしかすると数年でこれを越えてしまうかもしれません。
西成彦さんの『クレオール事始』という本の冒頭に面白い言葉があって紹介しようと思ったのですが、ちょっと今は本が見当たりませんのでやめておきます。自由への道がここにはある(かもしれない)というふうには思わされたことでした。
長々と書いてしまいましたが、今回も名前を伏せていただければ、転載していただいて構いません。むしろ、転載していただきたい。
おつきあいいただきありがとうございました。
では、ごきげんよう。

というものである。
私は対話のためにこのサイトを開いており、ここでは誰かを黙らせることや、対話を終わらせることを主な目的として発言することはしないようにしている。
私への反論はこのサイトの貴重なコンテンツであり、それは私のサイトの不可欠の構成要素であると思っている。反論の対比によって、私が言いたいことは、みなさんにはたぶんより見えやすくなるだろう。(それは「より批判しやすくなる」ということでもある。)
そこで、話をもう一回だけ蒸し返すけれど、この件についての私の意見はほんとうに単純である。

(1)日本は多民族・多文化共生社会になるべきである。
(2)単一民族・単一言語・単一文化という幻想に固着している人がいる。

(1)は理想である。(2)は現実である。私の問題の立て方は、どのようにして(2)の現実を解消して、(1)の理想を実現するか、というものである。(2)の現実を追認したり、強化したりする言説は(1)の実現の阻害要因になるだろう、というのが私の意見のすべてである。
私はこのような考え方の中には排外主義的なモメントは含まれていないと思う。
この方はナショナル・アイデンティティを保持しつつ、多民族社会を構成することはできるというふうに考えている。民族性などというのは「枕詞」のようなものでそれほどの実体はないのだ、というふうにも書いている。
しかし、フランスやドイツやアメリカの多民族「共生」の実状に徴する限り、あるいはもっと過激な例では旧ユーゴスラビアの実態を徴する限り、民族幻想というものの根深さと、それがしばしば分泌する排他性と暴力性を過小評価することはむずかしい。
たとえば、私とこの方は同じ空間を共有し、同じ言語を語り、同じ文物を享受していながら、かなり酒精分の高い言葉をやりとりしている。(私にとっては珍しいことだ。)
これは、「民族的な立場の違い」ということが主たる理由であると私は思う。
この方はメールの中で繰り返し(笑)という貶下的な記号を使っているし、メールの最後では私との対話の打ち切りを事実上宣言している。
こういう「熱い態度」ととる人は、これまで私が扱った政治的論件に関しては一度もこのサイトに登場したことがない。それだけ、この問題は「ホット」だということだ。
私は民族性と言う問題を主題にして語っているわけだが、それは私が「ナショナリスト」であるからではない。私とこの方を二人ながら(おそらく、ふたりともふだんは自分のことを「知的でクールな人間」と信じているはずなのだが)不本意にも「熱く」させてしまう、ナショナリズムというものをなんとかして相対化したいからであり、そこから逃れ出たいからであり、さらに言えば「無害化」したいからである。
法制を整えて、外国から二重国籍の移民を受け容れ、日本にさまざまな出自のエスニック・グループが物理的に混在し、それぞれ平等の政治的権利を有することが、日本の国際化の第一歩だというふうに私は考えていない。
私はナショナル・アイデンティティの排他性とその無意識的な根深さをそれほど甘く見ることができないからである。
現に、この問題についてこの方の批判は私の思考を「日本人であるがゆえの、逃れえぬ無意識的なナショナリティ」のうちに回収することをひとつの論争的戦略としている。これはある意味では自己矛盾的な批判である。
というのは、私が自由主義史観派と同類であるというふうに見える視点というのは、「日本人がそれと知らずに共有している無意識的なナショナリティ」というもののはかりしれない根深さと、治癒不能性について絶望的な見通しを持っている人に固有のものだからだ。
その「見通しの暗さ」については、私とこの方はそれほど隔たっていないようにに思う。
「おのれ自身をとらえているナショナリズムに気がつかないのがナショナリズムの深さの動かぬ証拠なのだ」というふうに言う人は多い。しかるに、そのような知見は人間のさまざまな言動のうちに「ナショナルなもの」の痕跡を執拗に検索するまなざしぬきには成り立たない。そして、「人間のさまざまな言動について、ナショナルなものによる動機づけを優先的に探索するまなざし」のことをふつう私たちは「ナショナリズム」と呼んでいるのである。(ブランショ的な無限後退だ。やめよう、これは)
ともかく、その意味では、私もこの方も程度の差はあれ、ナショナリズムという病に罹患していると私は思う。
私たちが分岐するのは「そのあと」の処方である。
私はナショナリズムというその痼疾からどうやったら私自身は治癒されるのか、ということを考えている。
「君は(自分では気づいていないかもしれないが)病気だ」という診断がまず最初にくる。ふつうはそこから始まる。私はその診断を受け容れる。
しかし、「君は病気だ」という言葉を繰り返しても、それ以上さきには進めない。
「どうやったらこの病気から癒されるのか」というふうにどこかで問いをシフトするほかない。
この方の意見を読むと、あるとき(例えば、私が無意識的な排外主義者であることを指摘するときには)にはこの「病気」の不治性を嘆き、べつのところでは(在日の方たちのナショナリズムについては)この「病気」が軽微なものであると書き、べつのところでは(さまざまな出自の移民たちの受け容れを薦めるところでは)いろいろな種類の「病気」の罹患者が混在すれば、「病気」の毒は相対化されるというふうに書いている(ように読める)。
私はこの点についてずいぶんと評価を異にしている。
私はこの「病気」が危険な病であり、簡単には癒やすことができず、それが「混在する」ところでもっとも危険な症候を呈する、という経験的知見から出発する。
それを克服するためには、ナショナルな出自とは無関係に、ある明確な理念を備えた「国家ヴィジョン」というものを公共的水準に理念的に設定するほかない、というのが私の意見である。そのことはすでに書いた。
その共同体へ市民としてのクレジットを供与することを「命がけの跳躍」というふうに書いたのである。
自分が「誰であるか」ではなく、「誰になるか」の方にアイデンティティの軸をずらすことでしか、真の共生は成り立たない、という原則に同意すること、そこから「その先」が始まると私は思う。
「理念に駆り立てられるのは」ごめんこうむる、とこの方は書いているが、私はこの点にかんしては譲るわけにはゆかない。
共同体が成立するためにはある種の「当為」が課せられる必要であり、それは情念の言語ではなく、論理の言語で語られるべきだというふうに私は考えている。それだけが情念的で排他的なナショナリズムからテイク・オフする道だと思っている。これは私の「信念」である。
もちろん、いま私たちの前に、「あるべき日本社会」を明示するような広大なヴィジョンは存在しない。それが最大の問題なのだが、それが「最大の問題であり、誰かがそれを語り始めなければいけない」という認識を共有する人々を私たちはいま必要としている。
私はこのような言葉を「ナショナリズムから自由な精神」の名において語っているわけではない。(私はそれほど気楽な人間ではない。)ナショナリズムは私の痼疾である。しかし、そこから身をよじるようにして抜け出すことなしには「先へ」はすすめない、と私は考えている。
その方法についての提案を私は求めているだけである。
同じ話をなんどもしつこく書いてすまない。