10月13日

2000-10-13 vendredi

大学の研修会があった。今回のテーマはFD (Faculty Development) である。
最近、さかんに語られるこのキーワードは「大学教授団の機能の改善」を意味している。
おもに「教授法」の改善が論点である。
大学の先生というのは教員免状をもっていない。教育実習の経験もないし、教育法を体系的に学習したこともない。いわば「教えること」については「ドシロート」である。
その「ドシロート」がいきなり教壇に立って難しい話をするのである。学生にわかるはずがない。
しかし、怪しいことに、これを「変だ」と広言する人がこれまであまりいなかったのである。
たしかに「変な教師」というのは少なくない。
私が知っているいちばん凄い先生は一学期に一回しか演習をしなかった。(それ以上休むと休職扱いになってしまうので、フル・サラリーをもらうために一回だけ登校するのである。)
演習に来た学生たちに一枚のコピーを配る。そこには一編のフランス詩が書いてある。学生はそれを黙読し、辞書を引いて意味を調べ、訳詩をつけるのである。沈黙のうちに90分が経ち、チャイムがなっておしまい。その訳詩は添削されて返却されることさえなかった。おそらくそのまま研究室のゴミ箱に捨てられたのであろう。
私たち院生は彼はおそらく「時給100万円」くらいの効率でお給料をいただいているのではないかと推察し、何がなんでも「大学の教師になりたい」と欲望の青い炎を燃やしたのであった。
この先生はけっして例外的に「凄い」わけではない。これに類する教師は本学にも存在する。
もちろんそういう先生方はFDの研修会なんかに来るはずない。休日返上で学校に来て、講演を聞き、夕方まで激論をかわすのは教育熱心な先生ばかりである。だから、考えてみると、あんまり意味がないのである。
やはりここは「おれは教育なんかする気がないね」というような暴言を吐き散らす猛者が登場してくれないと、議論ははずまない。しかし、ふだんそれに類すること(「最近の学生はバカばっかで、もう教える気もしないわ」)を口にする教師連も、昨日はおとなしかった。
講演に来たFDの専門家が「そういうことをいう教師こそダメ教師です」と最初に釘をさしたからである。
私はこういうことになるとぎゃあぎゃあうるさく発言するはた迷惑野郎であるので、さっそく分科会でも難波江ちゃんと「マイクのとりあい」を演じ、全体会議でも持論を展開した。
私の言い分はこうである。
学生の学力はたしかに下がっている。しかし、それは18歳までの勉強の仕方が間違っている(あるいはしていない)からであって、基本的な知的ポテンシャルは決して低くない。したがって、適切な教育プログラムさえ組めば、学力は相当程度向上する。
同学年の学生集団内での学力格差が広がっている。これに対しては「階層化」「学力別クラス編制」をもって対応する。平均主義はできる学生のやる気を殺ぎ、できない学生を切り捨てることになる。
逆に学年ごとに階層化されている「輪切り」を解消して、学年間の科目選択を流動化し、モチヴェーションの強い学生はどんどん高学年対象(大学院を含む)を受講できるようにする。逆に低学年次の履修プログラムを繰り返したい学生も受け容れる。(卒業間際になって「初級英会話」をインテンシヴにやりたい、とか「体育」で身体を鍛え直したいとか、「一般教養」を身につけたいとか思う学生は少なくないはずだ。)
突出して「出来る学生」に対してはプラス・インセンティヴを与える。奨学金、「ホノラリー・システム」(選ばれた学生だけの特別教育プログラム)、派遣留学など。
つまり、同質集団を「階層化する」ということと、異質集団間の階層差を解消して「流動化する」という二つの原理を同時に導入する、というのである
ちょっとややこしい話だったので、わかりにくかったかもしれない。
基本的に私は「背馳する二つのことを同時に行う」ことの有効性を経験的に信じているので、どうしてもこういうわかりにくい話になってしまうのである。
FDについては、教育実践の共同研究機関を公的に立ち上げるべきだと私は思う。
教育の仕方については、「失敗例」からも「成功例」からも学ぶことはほんとうに多いからだ。最初は授業の公開や査定を受け容れる少数をもって始めるしかないだろう。だが、ほんとうは「私の授業はぜったいに見て欲しくない」という教師の授業こそが問題なのである。

というところで、昨日書いたことについてある在日朝鮮人(韓国籍)の方からメールが届いた。名前を伏せるのであれば公開してもよい、というお言葉が付してあったので、転載させていだたくことにした。

はじめまして。
私は在日朝鮮人(韓国籍)の者です。
おおむね、内田さんのおっしゃっていることは正しいと思いますが、以下の部分が気になります。ナショナル・アイデンティティと「民族的に生きていくこと」を内田さん自身も混同なさっているように見受けるのです。

「つまり、考えて欲しいのだが、もし朴さんがいうように、日本が「多民族・多文化共生社会」になって、そこには日本以外の国民国家にナショナル・アイデンティティを抱くひとがたくさん含まれる場合、日本人(つまり日本以外の国民国家にはナショナル・アイデンティティをもつことのできない人)はどういうふうに「民族的に生きていく」ことができるだろう?」

他民族共生社会は、一民族としての日本人の存在をないことにするものではないはずです。むしろ、現時点では日本人自身には見えにくい「日本人の民族性」が他民族が日本社会の中で可視的な存在となることによって良くも悪くも意識されることでしょう。自分たちの「普通」が「自分たち日本人にとっての普通」であるというふうに。
今は一般的な社会通念として、「日本人=日本(大和?)民族=日本国籍所持者」というのがありますけれども、日本人を定義するときに「日本民族=日本国籍所持者」という部分をそれぞれ別のものとして扱わなければ、日本社会は他のナショナル・アイデンティティを持つ人々を許容できないという流れを導いてしまいます。
これはアメリカの場合と大きく違う点ですが、現在の日本の国籍法は父系血統主義をとっていますので、国籍の取得は「日本民族の血統を持っていること」が条件となります。それ以外の人が国籍を取ろうとするときには「帰化」、すなわち、「日本民族になったことにして同化すること」を求められます。例えば目立ったところでは、名前を日本人風の名前に変えることが条件の一つであった時期が長く続きました。これは、裁判の末、自分の名前を取り戻した人が出たことでおそらく今では改められているのかもしれませんが、他にも、帰化には様々な条件がつきます。そして、日本の国籍法がこうなっているのは断じて在日をはじめとする外国人の責任ではありません。
私は、日本人に日本民族をやめろとは言いませんけれども(そんなもの、やめようがありません)、日本という国がある場所にいる一民族であるという認識には至って欲しいと思います。そうならない限り、「朝鮮系日本人」だの「日本人」だの、自称する気もなければ、そう呼ばれたくもありません。別に、今のところは国籍もいりませんね。これ、日本人に対してずるい要求をしている言説に見えるのでしょうか? そういうふうに単純に相対的に扱われてしまうと、決して日本人と同じ条件を持たないものとしては困ってしまいます。

というものである。実は、「とほほの日々」を見てもらうと分かるけれど、この方が引用されている箇所は私の文章にはない。はじめはあったのだが、そのあと読み返して「なんだか言葉が足りないね。これでは国民国家へのナショナル・アイデンディティと民族的エートスという水準の違うものがいっしょくたみたいだ」と反省して、書き換えてしまったのである。
現在のものをごらんいただければ、そういうふうには読まれないだろうと思う。けれども、「そういうふうに」読まれてしまうようなものを一度は書いてしまったことは事実なのである。気分を害した人がいたらすみません。
さて、この方へのご返事であるが、簡単には答えることが出来ない。
というのは、私は民族主義というものに対しても国民国家というものに対しても、二つの相反する感情をいだいているからである。
それが醸成するエネルギーに対して私はときに敬意を感じ、ときに嫌悪を感じる。揮発性の高いナショナリズムは、ときに私を感動させ、ときに私を恐怖させる。
ナショナリズムが「統合の原理」として機能しているとき、私はそれを支持し、ナショナリズムが「排除の原理」や「分断の原理」として機能しているとき、私はそれに反対する。
そんな器用に見分けられるものか、と言われれば力無く「そうかもね」と答えるほかない。
いずれにせよ、私は多民族・多文化共生社会というものが簡単にできるとは思わない。
それは立派な理念であるが、そのような社会が成立するためには、「統合の原理」としての「多民族・多文化共生社会」に対する信憑というものが必須だと考えるからである。
ある理念の上に社会を構築するときには、その理念に対する「ファナティズム」が必要だ。
正義の上に社会を構築するためには正義に対する熱狂が必要なように。
愛の上に社会を構築するためには愛に対する盲信が必要なように。
多様なファクターを含む社会を編制してゆくためには、「多様なファクターをふくむのはよいことだ」という信憑が成員たちに共有されていかなくてはならない。単一であり、ピュアであり、同質的であるような集団はむしろ「穢れている」というような発想の転換が必要だ。
そういう立場からすると「論壇」に載ったようなロジックはずいぶん杜撰なような気がする。
単一でピュアで同質的な「エスニックグループ」が物理的に混在していても、それは「多様性を統合原理」とするような社会ではない、と私は思う。
私は「共生」というのを「救命ボート」に乗り合わせた人々のようなものだと考えている。
彼らが「そもそもなにものであるか」というようなことは何の関係もない。ボートをなんとか沈没させずにすすめたいという願いと、行く先についての合意だけがあれば、人々は共生することができる。
必要なのは、だから二つだ。「どうすれば日本社会を安全で、快適で、条理の通る社会として機能させるか」ということと、「日本はどこに向かって進むべきか」ということについて、メンバーのあいだで合意が成り立つこと。それが不可能であれば(おそらく不可能だが)「合意形成に至るプロセスについの合意」が成り立つことである。
この二つの課題を優先的なものとして引き受ける人たちによって日本社会は形成されるべきだと私は思う。民族的出自や文化の差異や言語の問題などは、この合意に比べればなにほどのことでもない。
これはあくまで原理的な話である。
メールをくださった方のような立場にあれば「そもそもあなたは救命ボートにもう乗っているわけで、私はまだ海に漬かって手を差し出しているところである。おぼれている人間に向かって『おれたちのボートに乗るには条件があるぞ』というようなことをいうのは倫理的だろうか?」と詰め寄りたくなるだろう。
おっしゃるとおりである。
話を変えよう。
いま日本は在住外国人に対して「非倫理的」だと私は書いた。
これをどういう口調で語るかによって、社会成員のポジションはきまるのではないか。
ある社会についてその不合理や犯罪性を批判して少しも心が痛まない人間と、言われると心が痛む人間がいる。
私は後者をその社会の正規のメンバーだと思う。
もし、ある集団の成員としての適格条件があるとしたら、その社会の「穢れ」をおのれの罪だと感じる、ということになるのではないだろうか。
メールをくださった方はこう書いている。もう一度引用する。
「日本という国がある場所にいる一民族であるという認識には至って欲しいと思います。そうならない限り、「朝鮮系日本人」だの「日本人」だの、自称する気もなければ、そう呼ばれたくもありません。」
言いたいことはよく分かるけれど、それではそれ以上先へは進めないのではないかという気が私にはする。
私が言いたいのは「呼ばれる」ではなく「名乗る」ということからしか「私たち」を主語とするような社会集団は始まらないだろうということである。
「咎める」立場から「恥じ入る」立場に転位することで、ひとは社会集団の「インサイダー」になるのだと私は思う。
これはその社会から排除されたり差別を受けてきた人にとってはきわめて残酷な要求だということは分かる。
しかし、もしこの方が日本社会というものを彼にとって真に快適な場所に変えようと望むのであれば、どこかで「彼ら日本人は」と言う代わりに「私たち日本人は」と名乗るという「命がけの跳躍」を行わなければならないと私は思う。
そんなのは「ナショナリズムの踏み絵」だと言う人もいるかもしれない。「新しい創氏改名だ」と怒る人もいるかもしれない。たしかに、扱い方をまちがえれば、私の言っていることは悪質な「査定の原理」に転化する可能性がある。
しかし同じことを繰り返すようだけれど、もし日本社会を多民族・多文化共生社会に作り上げようと思ったら、「そうでないことを咎める」言説をどれほど精緻に語っても所期の目的は得られない。
「そうでないことを恥じる」感覚を引き受ける人々だけがそのような社会を作り出すことができるのだ、と私は思う。
私はそのような社会をさまざまな民族的文化的出自の人々とともに作り上げたいと考えている。