10月12日

2000-10-12 jeudi

永住外国人に対する地方選挙への参政権について、自民党の一部議員が今国会での成立に反対している。彼らの主張は「参政権がほしければ日本国籍を取得せよ」ということと、そのために「国籍取得条件を緩和せよ」ということである。
それに対して、「21世紀の多民族・多文化共生社会」のためには、一定期間定住している外国人には国政参政権をも与えるべきである、というかたちで批判する声が高まっている。
私は永住外国人が日本社会の運営に主体的に関与することは当然の権利だし、望ましいことだとも思うけれど、「共生」を呼号するひとたちの論調のなかにちょっと気になることがある。それについて書く。

10月11日の朝日新聞の「論壇」に朴一大阪市立大学教授が次のように書いている。

「定住外国人が最も容易に参政権を手に入れる方法は、日本国籍を取得することである。(…) これからも多くの在日韓国朝鮮人が国籍取得という手段を通じて参政権を手に入れるだろう。彼らがコリアン・ジャパニーズとして日本の政治に参与していくことは、日本の国際化にとって望ましいといえる。だが、在日韓国・朝鮮人は、そうした選択を望む人たちばかりではない。これからも韓国・朝鮮籍を維持したまま、民族的に生きていこうとする人もいる。(…) 日本政府に参政権を求めてきた在日韓国・朝鮮人はむしろ後者の生き方を望む人々であり、そうした人々に参政権と引き替えに国籍取得を要求するのは本末転倒的な論理である。」

私はここで少し考え込んでしまう。自分たちのナショナル・アイデンティティを日本以外の国民国家に対して抱いており、日本国籍の取得を拒否する外国人たちを日本人は「共生すべき同胞」として迎え容れよ、というのは何となくおさまりが悪いのではないか?
というのはある特殊な国民国家に対してナショナル・アイデンティティを感じるということは、「多民族・多文化共生」と正反対なベクトルをもつ感受性だからである。
日本人に向かって「民族的に生きる」というような有害な幻想をもつのはやめて、「多文化・多民族共生社会」を志向しなさい、と指導するのはとても正しい発言なのである。だが、そう語っている当のご本人が、定住外国人に対しては「民族的に生きる」ことを許容し、あるいは推進しているということは矛盾しないだろうか。
Aさんは「民族的に生きる」ことが許され、Bさんにはそれが許されない。その上で、AさんBさんが「共生する」ということは可能なのだろうか?
私の単純なあたまで考える限り、多民族・多文化共生は、「単一文化・単一言語・単一民族のメンバーは世界のどこにいても、同じ国民国家に帰属している」という幻想そのものの廃棄なしには実現できない。
私はその考えを支持する。
私自身は「民族的に生きる」ということは生活習慣や信仰や芸術的感受性にかかわるエートスの領域に属しており、それは政治単位としての国家とはほんらい別次元に属する問題であるとかんがえている。
「民族的エートス」とはある種の「風土」に対する愛着である。それはその「風土」の上に現在存在している近代国家機構とも、それが発行するパスポートともかかわりなく、堅固に存立しうると私は考える。
現にユダヤ人たちの多くは「エルサレム」に強烈な執着をもっているが、それは彼らがさまざまな国の国籍を取得していることを少しも妨げない。
どうして在日韓国・朝鮮人の一部の人々は例えば「アメリカにおけるユダヤ人」のようにふるまうことを拒絶するのであろうか?
翌日の同じ論壇で岡崎勝彦というひとが同じ趣旨のことを書いていて、その根拠として、こんなふうに述べている。

「今や世界的に見れば、国家連合、二重国籍の容認など、国民主権 - 国民 - 国籍という強固な観念的枠組みは、それ自体が相対化されつつある。」

というのは、ほんとうだろうか?
たとえば、いまの問題の当事者である在日韓国・朝鮮人の「祖国」においては「国民 - 国籍」という強固な観念的枠組みは相対化しつつあるのだろうか?
もし岡崎がいうように国籍幻想が「相対化」しているのであれば、どうして、その「相対化」の思潮を論拠として、「国籍を維持したい」という民族的な願いの実現が要求されるのだろうか?
「国籍なんかどうだっていいじゃないか」と岡崎が主張する限り、私はそれを支持する。しかし、「国籍なんかどうだっていい」時代がくるんだから「この国籍じゃなきゃいやだ」という要求を認知せよ、という主張には論理性をみとめることはできない。
「人生、金ばかりじゃないぞ」というのは正しい。
「金なんか、他人にあげてしまいなさい」というのも正しい。
でも、その人が「で、あなたが捨てたそのお金、私にちょうだい。定期にするから」というのは変である。
多民族共生は理念としては正しいし、私も日本社会がそうなるべきだと考えている。
けれども、それを主張する人が、自分の「祖国」である国民国家の「国籍」に固執しているかぎり、その人の唱える「多民族共生」というのは論理的な言葉ではありえないように私には思われる。
私の言ってることは変だろうか?