10月5日

2000-10-05 jeudi

四回生の卒論中間発表会。11名のゼミ生諸君が力作の経過報告をしてくれる。一人15分程度と指定しておいたのに、学会発表みたいに朗々と30分以上原稿を読み上げる人もいて、ずいぶん時間がかかってしまったが、中身は濃かった。
今年の卒業生たちの選んだテーマは

「花火の魅力」「非日常の身体運用―どうしたら武道に上達するか」「少年愛マンガを消費する少女たち」「世紀末のジャポニスム」「人はなぜ服を着るのか」「顔のあり方」「主婦論と経済」「南総里見八犬伝」「ダンス・ムーヴメント・セラピー」「現代日本演劇の観客論」「異性装とジェンダー」

大学院進学予定者たち(いまのところ3人。本学の比較文化学、神戸大の総合人間研究、慶応大の社会学)は修士課程での研究につながる最初の学術論文になるので、おのずと力が入っている。中間発表をきくかぎり、その構想通りに論文が書けたら、学士号でなく、修士号をこの場で差し上げたいくらいである。それくらいに着眼点とプランは面白い。
それにしても12名のゼミ生のうち大学院志望者が4名というのはずいぶんな数字である。私の生き方をみていて、「大学の教師って、ほんとに楽そう」と思ったのかもしれない。
うちのゼミでは文献研究だけで論文をかくことを許さない。

「現場に行って、本人に会って、対象そのものに触れてくる」

というのが卒論研究のルールである。「若いときはとにかくフィールド・ワーカーたれ」というのが私の教育方針である。だからみんな花火を上げに行ったり、巫女さんの修行に行ったり、イタリア武者修行に行ったり、ダンス・セラピーを受けに精神病院に行ったり、コミケで少年愛おたくを観察したりとフットワークは軽快である。
卒論研究の教育効果は実は「仮説を論証すること」ではない。
最初に用意した仮説が現実の厚みの前で破綻して、「これって、話が違うじゃないの・・・」とうろたえたあげくに、研究を始めるときには自分で予想もしなかった新しい視点に導かれて、そこから未知の光景を記述すること。ここに妙味がある。
研究することとは自己表現ではなく、ほんとは自己発見なのである。知っていることを書くのではなく、書くことによって知ることなのである。
そういうことを一年半にわたってうるさく説教してきた甲斐あって、ゼミ生のみなさんのスタンスはどれもたいへんにチャレンジングである。

「・・・というふうに一般には思われておりますが、私はそうは思わない」
「・・・という評価が先行研究においては定説化しておりますが、何を言ってやがるでございます」

という喧嘩腰の視点に多くのゼミ生が立っている。
みなさん、私から学ぶべきものはちゃんと学んでいるようである。


大満足で中間発表会を終えて、そのまま我が家での「打ち上げ宴会」に雪崩れ込む。
この1週間で3回目の大宴会である。さすがに近所の目が冷たい。エレベーターで出会う近所のおばさまがじろりと私を睨む。

「年中、若い女を連れ込んで、大酒を呑んでるこの男はいったい何者? 大学の教師とか言ってるけど、大学の先生が、こんなに宴会ばかりしているはずないわ。女子大生パブの店長かなんかじゃないのかしら」

わーん、違うんですよお。これも教育活動の一環なんですよお。
とかいいながら、ゼミ生諸君を前にして、酔眼朦朧としてとくとくと「悪女のすすめ」について講義を行う。若い学生諸君にはなかなか「悪女になる」とか「嘘をつきまくる」とか「おいしいとこだけ食べて捨てる」とか「別れやすそうな男とつきあう」とかいう男女の機微が理解できないようであるので、噛んで含めるように教えて上げる。
恐るべきことに、私が半世紀にわたる悲痛な経験から学んだこの「愛の叡智」のことごとくについて、にっこり笑って「ふふ、そうなんですよね」と同意するのがマジカル・カナちゃんである。はたちそこらで「そこまで」分かっているとは、さすがに魔法遣いはたいしたものである。

さあ、明日から多田塾合宿への旅である。帰ってくるのは月曜の深夜。それまでみなさんさようなら。