ついに昨日から学校が始まってしまった。
ふたつ演習がある。3回生と大学院。3回生はわりとちゃんとしていたが、大学院生はまだ頭脳が始動していないらしく、全員呆然としている。いつもは鋭いつっこみをみせる「盗聴生」の飯田先生も昨日は「まだ頭が夏休み」のままだそうで、目がくるくるしていた。
演習が終わってからソッコーでお能のお稽古。『巴』を上げて、次は『船弁慶』。『猩々』の舞囃子のお稽古をマンツーマンでばりばりしてもらう。汗びっしょりになって家に帰って、ソッコーで晩ご飯の支度。さんまとおでん。
新学期がはじまるといきなりソッコーの日々である。とほほ。
食後に鬼木先生にいただいたバカラのグラスでスコッチをのみつつ、吉見俊哉の『カルチュラル・スタディーズ』を読む。読んでいるうちに、眠くなってきた。
吉見の本にはいろいろなことが書いてある。しかし、情報量が少ないように私には思えた。
「情報量」というのは「データの量」ということとは違う。
私の勝手な定義によると、ある学術情報の含む情報量とは「その情報にふれることによって、節約される時間と労力」の関数である。
だから、先行研究について言及するような場合、「この本は読まなくていいです。この本は、この章とこの章だけ読んでおけばいいです。こいつはバカだから無視していいです」ということがきっぱり書いてある本は「情報量が多い」と言って良い。逆に「これについては、こういうことを言っている人がいます。こういうふうに言ってる人もいます。こういうふうに・・・」と列挙する本はこちらの仕事がふえるばかりであるので、「情報量が少ない」ことになる。
吉見の本は(私の基準からして)あきらかに「三流以下」の学者の先行研究についてまでこまかく言及しているように思われた。もっと「ばっさり」切り捨てて、本当に読む価値のあるものを絞り込んでもらわないと読む方はちょっと困るです。
私の基準における「一流の学者」というのは「五十年後も読まれ、引用される学者」、「二流」というのは「二十年後も読まれ、引用される学者」。あとはみな「三流以下」である。
この基準でいくと、読むべき本は一瞬のうちに整序されて、世の中は実に平明になって、たいへんによろしい。
(2000-10-04 00:00)